夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ハロウィン.

魔女。ワルプルギスの夜。黒魔術。サバト

いろいろな連想が広がるのだが、あんまきの日同様、よくわからない謂れはさておいて楽しむべし、というのがこの日本での基本しぐさのようだ。

おもわず使ったこの「しぐさ」という語だが、この使われ方も個人的には大変鼻につくと思っている。

江戸しぐさ」とかといわれている。このわざとらしさ。

どうわざとらしいのか。しぐさというものはだれかに強要されるようなものではない、と思うからだ。しぜんとなすもの。人に「美しく」「上品に」見られようとする心根がまずはもう、美しくも上品でもない、と思うからだ。

他人からのまなざされが気になることは、底が浅い、と端的に感じてしまう。

おなじく残念に感じるのが、「名古屋ことば」。いや、別に名古屋の言葉がいかん、といっているのではない。「江戸しぐさ」と同じく、ある傾向のあることばを強制的にしゃべることで、それを聞いた他人になんらかの感想を抱かせよう、という、他人の感想ありきの態度が、他人のことを気にしているという点で、嫌なのだ。

自分の判断で、言葉も、しぐさも、自然と思うままに在りたい、と思うのだ。誰かに何かを感じてもらうための態度や言葉とは、これも端的に言えば「媚び」であろう。さもしく、あさましい、という感じがしてしまう。

勿論他人との関係は重要だろう。だがここで出てくる「他人」という言葉は、まわりまわって「自分に還ってきて」「自分が得をする、有利になる」ために使う関係性のことである。

そこが、嫌なのだ。

出来れば、自由時間は、他人から利益を得ようというおもいからは自由でいたい。それこそが、自由時間である。

もちろん上記の言葉たちに罪はない。だがそれをある「思惑」、選挙だったり、自身の本を売るためのフックだったりしているのが、仕方がないのだが底が割れている、と感じるのだ。

クリスマスにハロウィン。いやそのことに文句はない。別に宗教オリジンの行事だからといって、なにもしらずにやってはいかん、などとはいわない。クリスマスは、生まれたときから恩恵を(プレゼント獲得)受けてきたではないか。

だが、イベント創出、経済効果ゲット、という構図に、分かっていてのっかることは悪くはないものの、どこかすこし、なんだか醒めている感じが残ってしまうのだ。

もう一つ嫌な理由。例えば「江戸しぐさ」ということばには、そこにはは今のしぐさが上品ではない、というドクサの気配を感じる。「名古屋ことば」にしてもそうだ。名古屋の言葉は折に触れ莫迦にされるが、歴史に基づく由緒正しいものだ。という「押しつけ」。

今のしぐさがどうであるか。名古屋の言葉がどうであるか。もちろんそれは議題となるだろう。だがそれを間接的にわからない人にはわからないように、届けてしまおう、というこ狡さ。これに虫唾がはしるのだ。

直接言えば、いいではないか。伝わりにくい?こうしてひねって伝えるのがいい?そう思う人もいるのかもしれないが、どちらかというとそういうことを言っている人の自慢げな様子が垣間見えて興をそがれるのだ。

いやいや、ハロウィンからなんだか文句大会になってしまった。申し訳、ございません。。

(東京にいたことは、ハロウィンで電車のなかにマリオやらドラキュラやらがたくさん乗っていて、おもしろかったです)