夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

親ガチャ。

昨日の体重は64.1kg、体脂肪率は9.8%、歩数は10138歩、ジムで1時間。

 

数字上はいい感じではあるのだが、体感でいくと下半身が重い。というか下っ腹に脂肪がある感じである。だがまあ当たり前だろう。62キロ前後ですこし痩せすぎか、体重が下がると筋肉をエネルギー消費するか、と心配して2キロ増量に及んだわけだが、増えるために肉は食べるがやはりメインは糖類、主に白米や麦米となる。

 

あと昼食を食べている。夏がすぎつつあり、スーツで歩いても汗の量は減っている(汗はかきますが)。毎日絶対1万歩あるくぞ、というしばりを楽しく続けてはいたのだが、それだとあまりに疲れて自動的な睡眠導入が強すぎる(すぐ眠くなる)のはちょっと行きすぎかな、というのもあり、まあ歩かなくてもいいじゃないか、ということをトライしている。

 

まあいわゆる「なまけモード」である。ただ、楽だから、つらいからなまけたい、というよりは、ストイックすぎたかも、という視点での対応ではあるが。

 

こうしたストイックさは、将来の健康への投資のつもりで行ってきた。多分それは間違ってはいないだろう。日々自身にたまたまあたえられたこの肉体を客観的にモニターして、できるだけうまく持っていきたい、と思っている。

 

親ガチャ、ということばが気になっている。端的に、「あきらめ」「身もふたもない」「そうではない、という建前をはぎとったところにあった言葉」という感じがしているのだが、

 

そこにそれだけではない、そこはかとない「怒り」「そんな人間界ではたしていいのか」というルサンチマンが、「ガチャ」といういわば「はまったらヤバイもの」「どちらかというと避けるべきもの」であることばの選択に込められている。

 

しょせん、人生は運命というより、生与のものでの運不運がほとんどだ。

 

そう思うのは、たとえばナチスドイツの映像などを見る時だ。その時間、その社会にもし私がドイツ国民であったのなら。あるいはドイツ圏のユダヤ人であったのなら。

 

これはもう、たぶん確実に、非常にしんどい境遇にいたのだろう、と思う。

 

なぜ逃げないのか。そうおもうのは簡単である。

 

だがドイツ語しかしゃべれず、旅費もなく、国外に知り合いがなかったのなら。

 

思考停止でその場にたぶんとどまっていただろう。そしてもし、そのとき子供であったのなら。

どうにもならない。

 

で、そんな「どうにもならなさ」と地続きなものを、この「親ガチャ」に感じるわけだ。

 

意識して、では自分ではどうかんえればいいのか、そのような世界がよりよいのか。

そんなことを考えねば、とぼんやりと思っている。

 

(大変に、難しいところですね。。。)