夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

プロジェクトとはなにか。

自分自身にとってのプロジェクトとは、どのようなものだろうか。


愛と勇気とサムマネー。 チャップリン


仕事じゃないんだ、真面目にやれ! タモリ


二つの名言を並べてみた。

チャップリンの言葉は、金、というものを過剰にとらえすぎず、はたまた過少に見過ごすことなく、正面から取り組め、という風に聞こえる。


金の亡者、という。金との距離が取りづらいことを端的に示す、ある末期症状のことだろう。状況に応じ、生きるためのよすが、手段のことを、過剰にではなく的確に考えねばならない。


そのための手段が”仕事”である。楽しい、楽しくないは、本質的には無関係だ。楽しい仕事がある。楽しくない仕事もある。たまたま楽しい仕事で着実に生きる手段が得られるのであれば、いいことだ。ただ、趣味を仕事にすることはどうか。ここが間違いどころだ。趣味を仕事にすれば、趣味を失ってしまうのだろう。


タモリ、という人について、嫌いではないが、特に好き、というわけではなかった。だが、だれかが書かれた文章経由で上記のタモリの言葉を聞いたとき、タモリという人の凄さを感じた。


タモリチャップリンの言葉のあと、サムマネーがなんとか確保できた時、あるいは後、のことを喝破しているのだ(私的理解です)。


いかに楽しくても、普通は仕事は遊びにはならない。楽しくなければ仕事は仕事だ。定年、という仕組みを見ても、仕事は一生添い遂げらえるものでもない。


自営業には定年がない、ということはいえるだろう。だが人に決められる(あるいはルールに決められる)のが定年であるが、自ら廃業を決めるのが自営業での定年にあたるのだろう。


定年、あるいは廃業。そのあとにのこるものこそ”仕事じゃない”ものだ。
そしてそれは、必ずしも定年や廃業の後にしかこないもの、というわけでもないだろう。幼少期に、始まることさえ、あるだろう。


それは”自分の、自分にとっての、自分のためだけの”プロジェクト、といってもいいかもしれない。誰に言い訳する必要もない、やりたいように、自分ルールで、やればいい。


そこを、タモリは言っているのではないか。仕事じゃないんだ、と。


そこをつい、忘れてしまう。それをやることに、罪悪感が出る(言い訳、ともいう)。
世間の思いこみの逆張り、という体を敢えて取り、それでいて不意をうつ、そうだ、その通りだ、でもなぜかわすれていた、気づかないようにされていた(誰に?)、という形で、心に、魂に、すこしの諧謔味と共に、到る。


そんなことばである。


喜劇、を演じる人たちは、裏では泣いて骨身を削って、生を見据えているだろう。
そのことをもまた、この言葉たちは想起させてくれる。


(二つの言葉とも、口につぶやいてみると、元気が出てくる気がします。)