夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

残るもの。

真の問いはむしろ、「何が残るのか」、「日々年月を可能なかぎり生きてきた末に、つまり、解読できない法則の必然性にしたがって、起こるにまかせて行きあたりばったりで共に生きてきた末に、何が残るのか、である。
(中略)
もし残るのなら、善なるものが善であり、悪なるものが悪であって、それ以外ではありえないと信じる能力は残る。
アガンベン 書斎の自画像 P.47

存在する、生まれる、生きる、死ぬ。

すべての存在には、だれかあるいは何かから与えられた存在理由はない。

しかし、その事実だけでは、人はただ生きて死ぬだけ。やはりなにか理由が欲しい、というところもある。

「自分が」生きた理由。

自分とはなにか、はとりあえずおいておいて。

 

なので、無理やりこう思おう、とするところはある。

とりあえずこういうことにしておこう、そのほうが精神的には安全だ、という。

 

そんな不確かなところで、むりやりひねり出す「生きてのち残るものは何か」という問い。

問い、というよりはいいわけのようなものだ。

あるいは「ゲームをする理由」のような。

 

ゲームをすることは、単なる時間の消費のためなのだろうか。

「時間つぶし」がもったいない、とはよく言われるところである。

 

本当にもったいないのか。もったいない、という意味は、「ほかにすべきことがあるだろう」という意味だ。

 

本当に、そうなのか。

 

読書することも、映画を見ることも、ゲームをすることも、いわゆる広義のエンターテイメントに淫することでもある。エンターテイメントはいけないのか、知的な、エンターテイメントもあろう。

魂が、喜ぶのが、真のエンターテイメントであろう。

 

善と悪を感じること。そこからたぶん、「美」や「真」を感じること。

 

そういう契機になるような、「時間つぶし」であるのなら。

 

それは、どこか、この宇宙に、残るのかもしれない。

 

魂の、震えの、記憶、として。

(残す、にこだわりすぎないこと。残ってしまうもよし、残らないのもまたよし、というところでしょうか。。わかりませんね)

書斎の自画像 (シリーズ〈哲学への扉〉)