夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

比喩と神話。

先週は久しぶりに実家へと帰った。



すっかり歳を取った両親を見て、向こうも息子は歳を取ったとおもったのだろう、などと思ってみる。



ところで、




神話とは比喩なのであろうか。


比喩、とはそれが本当ではない、ということを含むのであろうか。



小林秀雄は、考えるヒント「国家」の中で、プラトンの選ぶ比喩という手段は、比喩のもつ真剣度の低さ、例えばの話、というものではない比喩のことを述べている。

そうとしか言えない形での比喩。



いわば”真剣な比喩”とでもいったものだろうか。



それはそうとしかいえないから、比喩の形をとるものだ。

苦しんで、表現につまり、絞り出すような形でひねり出すもの。

そのような比喩は、比喩であって比喩ではない。


たとえば、神話。


ギリシャ神話や古事記。初めて読んだときは、荒唐無稽に感じた。”そんなことあるかいな”。

昔の人はそんなことを信じていたのか。



とばかにしていたものだ。

だが、さいきんどうもそうではにのではないかと思うようになった。


世界がどのように始まったのか。

生と死。

死後、はあるのか。


そういう生きていればどうにも考えてしまい、そしてたぶん答えが自分には、あるいは自分では思いつきそうもないこと。


そういうことを考え続けるとき、人は”神話”というものを生み出したのであろう。

そして、その神話が自分の魂に納得感を与えれば与えるほど、魂は安心し、”おだやかに生きられる”。

そして

”おだやかに死ねる”。


神話とはそうしてできたものなのではないだろうか。



だからそこでは、”本当かどうか”や”比喩かどうか”は
たぶん本質的にはあまり関係がないのかもしれない。


そうとしかいえないことを、そのように言った。


そういうものに対し、人類は価値を認め受け継いできた。


だが、今は神話はあるのか。


”神は死んだ”と言われる。それは神がいなくなったのではなく、比喩、と感じられる度合いがあまりにも高まった、

いいかえれば”魂が納得しにくくなった”から、従来の形の”神”ではもう間に合わない。


そういうことではないだろうか。


しかし、人はなんらかの形で”神の機能”を求める。


人は一人で生まれ一人で死んでゆく。


その事実の当たり前的心細さに、基本人間は耐えにくい。


そこでなにかを求める。自然な流れとして。



そこで出てくること、それはやはり”答えがないかもしれないが考え続けること”しかないのではないだろうか。

わからないと、わかる。



これである。



哲学は死の練習、といったように思う。


それはこのことを言っているのであろう。




そこのところを、宇宙的大きさで教えてくださったのが、



池田晶子さんであった。僕にとって。





あと、神話を楽しむ。比喩であるかどうかを気にすることなく。


そんな境地も楽しいものだ。



たとえばグノーシスプラトンも後世には”宗教”あるいは”神話”として読まれたようだ。


そしてまた例えば”ファイブスター”。


86年から連載されたこの物語を、学生時代から読んでいる。長い中断を特段フォローすることなく来たが、最近までの連載再開もあって、最近1巻から読み返してみた。現在最新刊の1冊前の11巻まで。

細切れで、登場人物があっけなく、ご都合主義ではなく死んでゆく。そこが神話の神話たるところだと、作者はいう。

こういうところを見ると、これが神話の一種であるとこがわかる。

神の視点。本を手にすると読者はそれを僭越にも与えらえるのだ。


贅沢な話である。本ってやっぱりすごい。


グノーシス―古代末期の一宗教の本質と歴史

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WAVE ファイブスター物語 1/144 エンゲージSR3 通常版

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FSS IMS 1/100スケール シュペルター・K.O.G.

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