夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

批評。

小林秀雄のあの有名な一言、

”批評とは、竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか。”

が、妙に気になった。


つまりは、”批評とは、自分の夢を語ることである”

と言っているのである。


批評には、自分が無いほうがいい、ような気がするのが普通だろう。自己を無にして”客観的に”対象物を評価すること、それが批評だ、と思うものなのだろう。


だが、小林の一言は、それをひっくりかえすものだ、その中にひそむ無理、あるいは驕り(=自分はこの作者より上から見ることができる)の構図が無意識に起こることを、避けよう、としたものだ。



批評とは、(対象物を通り過ぎる)自分を通して、自分の中にある”己れ”を引っ張り出すこと、結局は、”自分のこと”。

こういう批評には、責任が伴う。安易に、カジュアルに、行えるものではない。批評のための批評、はできない。単に相手を貶めよう、ということもできない、なにしろそれは”己の夢を畢竟貶めることになる”のだから。


小林は批評の際、相手を褒めることがほとんどであったという。それはつまり”己の夢”を前向きにとらえ、対象物を通して発展あるいは、開示確認しようという思いがあったためであろう。

それ以外の意図で、やることは、”批評の本分から離れた批評とは似て非なるもの、それはそも名づけるに値しない”。


結局は、小林は、時間を掛けて文章を責任を持って書く以上、”己の夢”を書くこと以外にやることはない、と、

この処女的評論で高らかに宣言したのである。


この文章はだからその、己の夢に忠実な書き手の香気ある常識宣言を、示すもの、そしてその宣言やよし、とした当時の”文壇?”の良識とセンスを、うらやましくも感じる。


こうして日常にちょっと思ったことを書くこと。これもまた小さな己の夢の発露、といえるのかもしれない。

そんなことを言ってしまうと、なんだか書きにくくなるようだが、それでも、そうした思いを根っこで持つことは、案外自分にとって大切なことなのだろう。

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)


本日の新聞から。

読売新聞読書欄。若松英輔氏が推薦する矢萩多門作”偶然の装丁家”。

ギーガーの言葉の引用が引用されている。ひ孫引きか。

「宇宙は原子ではなく、物語でできている」。

桐野夏生氏の特集。

ライターズ・ハイについて作者自身が述べている。

”私の場合は、毎朝、仕事場に行ってパソコンを立ち上げ、前日に書いた文章を推敲することから始まった。推敲だけで終わる日ももあれば、やたらと筆が進む日もある。昼は持参のサンドイッチを食べて、また作業に戻る。ふと気付くと夕暮れ時。パソコンの電源を落として家に帰る。家で夕食を食べて風呂に入り、翌日の構想を練る。”

なんと孤独で、芳醇な日々であることか。

あこがれた。

偶然の装丁家 (就職しないで生きるには)

偶然の装丁家 (就職しないで生きるには)