夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

覚悟。

いささか変わった形態かとは思うのだが、僕は長男と寝ている。

朝から勉強せねばならない由で、4時過ぎに目覚ましが鳴った。起きた瞬間に、小林秀雄文化勲章を貰ったとき、揶揄する言葉を投げてきた文士に対して発した言葉、”てめえらとは覚悟が違う!”が去来したのには驚いた。

まあしかし、これは唐突でもなんでもなく、昨日小林秀雄全集を紐解いていた所為であり、すぐに起き掛けで去来されるところ、さすが小林秀雄、と思わずにはいられない。

小林の文章が難解である、といわれるのは、小林が言葉の一つ一つに預けた思いの強さのためであろう。前述の”覚悟”といってもいい。その言葉は同じ言葉でありながら、どこか違っている。それがなぜかわかる。言葉に宿る思い、まさに”言霊”を直視する想いがする。

小林は批評を広めた、といわれるようだが、この批評は今の批評といささか違っている。そういう意味では同じ”批評”という言葉で表されつつその精神が違っていること、池田晶子さんがおっしゃる”哲学”と糊口をしのぐ手段としての”哲学”あるいは”哲学史”との違いと同様である。

小林の批評は、対象を通して、自らがどうしようもなく出てくる。自らとは、真理であり、真実である。そこに照らして出てくる対象物の真価あるいは込めた思い。それを表現するのこそが”批評”である。
僕はそのように理解している。

なので、批評のための批評、を見るときの疲労感は深い。読む事が難しい。相手をくさす、ではくさすほどのなにをあなたはお持ちなのか。そう、問いたくなる。ひとをくさして自らの正当性をアピールする。”言論戦”と呼ばれる会話の中で現れる空虚。

だが、相手の発言に相手の人格を見て、こちらの発言にこちらの人格をかぶせる。これでは楽しむための、あるいは”論理的頭脳を鍛える為の”エクササイズとしての論戦(なんとなく西洋で実施されていそうな)を実施することは無理である。

すくなくとも僕は出来ない。

自分がとことん論理的ではない、と思う瞬間ではある。しかしそのような”論理”、果たして本当にあらまほしきものなのであろうか。実は、それほど、というか全然、欲しくはなかったりする。

結局行き着くところはブラトンの言葉、”汝自身を知れ”ではないだろうか。マウンティング、ということばの語感に感じる浅ましさとは結局”人と自分を比較することに価値を求める”精神の幼さ、への嫌悪感と同じものなのであろう。

しかしながら、”比較”を基準にした生き方はすなわち容易である。そんな心象をベースにした商売、つまりマウンティングのための商売、これは沢山ある。僕は関西育ちのためか、幼少のころよりベンツがたいそう嫌いであった。マウンティングはされるのもいやだが、見るのもいやだ。ベンツにヴィトン、見るたびに所有者の嫌な精神構造が傷口から見える腐肉のように感じられたものだ。

ベンツは安全でデザインが善く、ヴィトンも物は堅牢で与えられた仕事をきちんとしている。製作者は全くマウンティングの道具として考えてもいない。製作者がこのような”使用法”を知ったら残念に思うだろう。しかし、製品は所有者を選べない。”生”が生まれることを自ら選べないことと、なんだか似ている気がする。

小林の”覚悟”はそうした精神構造とはかけ離れたところにある。すべて自分に還ってくる。逃げない、言い訳しない。他人はいない。自身のみだ。

そこにいることの厳しさと孤独。そしてすがすがしさ。

そのことを、小林は”覚悟”といったのだ。



それがわかりもしない”てめえら”と”いっしょにするな”。



矜持、ということばの、正しい姿と在り方の見本が、その江戸前な啖呵の中に、あった。

そしてほにかに、その世界にあることの気持ちよさ、への誘いも感じるのは、穿ちすぎで、あろうか。

小林秀雄は、池田晶子さんと同じで、たいそうはずかしがりで親切な、ひとでもあるのだから。