夢を、見た。
実は、池田晶子さんとは違い、夢を覚えていないほうだ。池田さんは一時期夢日記をつけていらしたと記憶するが。
覚えていないので、夢というものに対する想いも今一つ?といってもいいかもしれない。夢は夢で今と同じ、あるいは別の生である、あるいはその逆。
夢の中で人はなぜに勝手にしゃべり、夢の中の生を生きるのか。
・・・とかは、実はあまり思わない。
だが、こう書いていて気付いた。夢のなかでも、自分は自分なのだ!
”今生”とは条件は違うが、違う生を生きたりしているが、大体は自分の中にある意識、もしかすると魂というべきものは、”この世”と同じく、自分なのである。
自分ではない、と思いながら見る夢は、無かった。
これは実は、不思議なことだ。
夢の中でも、自分は自分だ、という部分は、強固である。
人間でさえ、なかったことがあったかもしれない。しかし、何等かの“躯体”の中におり、自分としての意思でなにかをしていた。
たぶん、どの夢の中でも。
そうか、それで、池田さんは、夢はと生との可逆化、あるいは胡蝶の夢論を、おっしゃったのだな。
勝手にそう納得した、今。
時間はない。長く生きる、短い生、もない。
だがいまこの不可思議な生、本当にあるのかわからない、しかし、妙に現実味のある生、
これを生きている。
夢、ももしかすると”別の時間の別の生”なのかもしれない。
そこでは、”本当にそうか”はあまりもう関係がないのかもしれない。
そこはそういうもの。それが今ここにいてこうしてPCを打っている”僕の生”の、一部。
なんだか、そう思ったのだ。
生命とは、この今の身体に流れるエネルギー、ロボットでいえば、電気、のようなものなのかもしれない。
そういう思いから、”輪廻転生”の考えが出てきたのだろう。
車もそう。つんだエンジンによりスピード、つまり車個体のパフォーマンスは変わる。
”生”もそうだ。
かげろうは、かげろうの体の生。蚊は蚊の、ハエはハエの。
小さい彼ら彼女らを見ていると、しかし”生”は同じなのだ、と思う。駅のトイレで”便所バエ”などをみていると、特にそう思う。
かれらの”生”、もしかすると”魂”が、例えば人間の”躯体”に入っていたのならば。
人間の脳、人間の口があったのなら、必ずやふつうに人間であったのだろう。ロボット、は別物だ、と思って(思おうとして?)いるが、実はあれはあれで、別の形で、けっこう”生”だったりして。
人が”人工のもの”という、思い上がりを、思う。
人工、というと、人間が作ったというが、所詮地球の物質の形態が変わるのに、手を貸しただけだ。つまりすべて”自然”。
目の前のままを人間の手を加えないさまを”自然”というのならば別だが、そうではないのなら、”すべてはあるようにある”。
もっというと、”あるべき”はない。ただ、ある。
動植物が、滅亡する。そこに、いい、わるいは、ない。
勿論、絶滅させよ、といっているのではない。傾向としては絶滅させない方向が”好きだ”。
だが、そうなったのならばそうなったということ。
そうならなかったら、そうならなかった、ということ。
これは”運命論”でさえない。
ありのままが、これ。ありのまま、でしかあることはできない。
いわば”ありのまま流れ運命論”とでもいおうか。
そう思った。
そうか、これが”輪廻転生”か。
体と魂が、本来別物であると、感じること。
ここがたぶん出発点だな。
そして、そうかもしれないと、”感じる”ということ。
その、作用も、また、不可思議だ。
実は、今日の夢、内容を結構覚えているのに加え、もう一つの特徴があった。続き物、だったのである。
今日は、2回目だった。
僕はなぜかキックボクサーの3回戦に出ている。前回は、勝った。
また、試合に臨んでいる。
トレーナーがいる。女性だ。歳は40代のようだ。
自分の”SPEC"は今と同じ。つまり”おっさん”。
それで、どうも、相手は若かったり、子供だったりする。
初戦は詳しく覚えていないが、どうやらあまり期待されていない(観衆が、いるのですね)が、勝ったようだ。ちょっとしたサプライズ(観客的)のようだが、自分ではけっこう隠した自信があったりする。
いまから、試合、いつ試合なんでしょうね、といいながら疲れたトレーナー(マネージャー?)に、しっかりサポートしてほしいなあ、と思いながら座っていたら、呼ばれた。
まさか、一試合目ではないよな、まだメンタルまったく盛り上げて、練り上げてないぞ、と思っていたら、呼ばれた。
あーあ、という思いで、”僕ですか”などといいながら小走りで試合に向かう通路へ向かった。
なぜか、地下通路経由だ。
弁当箱のような地下(といってもそんなに深くない)に向かう箱でガタン、と降りて、慌てて試合に向かうところで目が覚めた。
相手はどうも子供のようだ。
・・・・いやあ、続きは、見れるのでしょうか?