大澤信亮「神的批評」を読んだ。
前回ここの記事を書き終わって”池田晶子”のキイワードを検索すると、大澤氏がご自分のブログで池田晶子記念”わたくし、つまりNobody”賞を受けられたことを記載されているのをみつけた。
同日図書館で予約していた本が届いたとの連絡あり行って見ると、手渡されたのは大澤氏の”神的批評”。予約してしまうと安心してしまって、なにを予約したか忘れてしまうのだが、渡された瞬間、一瞬びっくりした。
我々は生きる為に殺さなければならない。動物なのか、植物なのか。今の生は生きるための殺がシステムに織り込まれ、我々が目にしないようになっている。
我々は生きるために金を稼がねばならない。例えば議員。名古屋市では市会議員の給与を半減させる、ということに市民が賛成した。”我々より貰っている”。
議員である以上、朝鮮人学校の学費無料化は凍結せざるを得ない。”北朝鮮の動きが日本に対してネガティブに映るときに関連した所を補助する動きをすると、選挙に,党に、影響する。”
多分個人での意見は違うのだろう。それが見える地点で、そこをわかって突いてくる手法は、あざとい。しかし効果的だ。初めてやったものに利点がある。それに反対しようとすると、これに賛成する”見えない大衆の生きんがための本音の叫び”に正面から対峙することになるような気がして萎える。危ない。”生きるためには誰かが殺さねばならない。私は殺していない。誰かに見えないところでやってもらっている。自分で作った仕組みではない。生まれたときからの仕組みだ。しかし、いまこの一食が、すべてそこに繋がっている。”
”生きねばならない。金は要る。今の仕事は議員だ。続けなければならない。では言うべきことはなにか。”
存在が、生きることが、不可避として持つ悪。どうしようもない悪。意図せざる悪。
そこは、既に無意識のなかで”イタイ”こととして認識されている。そこを正面きって考えることには無意識のバイアスがかかる。
そこを直視し、逃がさぬように押さえ込みつつ、自らも共犯者として、自分の問題として、考える。
そんなことを思わされた文章で、あった。
1月9日、読売新聞書評欄で、川上未映子氏が評していた。
それで思い出した。川上氏の書評は信頼できる、というか合っている。過去では荒川洋治氏の本に引き合わせて頂いた。
そして氏は同じく池田晶子記念賞の第一回受賞者でもある。氏が選考に加わっていらっしゃるのかは不明ではあるが、でもしかし。
なるほど、繋がっていたのだな、とわかった。
そして池田さんはいったのであった。どれだけ自分を消せるのかが人生である、と。
生きることと死ぬことをとことん考えた人の強さと慧眼を思った。
- 作者: 大澤信亮
- 出版社/メーカー: 新潮社
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文中で、山椒魚を食べようとして首を切ると、20時間も首なしで動いている。それが憐れである、という箇所、
首を切られるときの”キュッ”という声が耳を離れない、という箇所、
料理をすると山椒の香りが辺りに漂う、という箇所、
文章を参照しながらではないので、記憶の中であるが、妙に心に残った。山椒魚は一説何年生きるのかわからないとも聞く。何百年も生きるのかもしれない。
不謹慎な例えであるかもしれないが、将来間違いなく人為的に殺されることが確定している”死刑囚”という立場、存在を、なぜか思い出した。そういう存在に対峙するときの人の気持ち、とか。
今目の前にリアルに存在しているのがちょっと違う存在である、というような。