夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

大相撲を、怒れない。

八百長問題、がかしがましい。

かまびすしい、といってもいい。

池田晶子さんの生活は、”新聞見ない、TVもほとんど見ない、週刊誌なんてもっときらいだ(by残酷人生論)”となるわけだが、そういう生活でも伝わってくる問題があった。

無論連載を持たれていて、情報を得ることもあったろう。人とあって出てくる話題もあったろう。

そうした”漉紙を経てきた”話題について、さて、そこまで問題になるのは人類にとってどのような問題か、とやおら考えられたような気がしている。

そも、相撲取りとはなにをするひとなのか。

池田さんは言った。食べるために文章を書くのであれば、ほかの仕事をして食べるほうがよっぽどましだ、と。

書くために、書く。

それは食べるために生きる、を批判して、生きるために食べるべきであると説いたソクラテスの教えに通じるものだ。

これは、生きるときの心構えとして、すべてに通じる。

いろいろなステージがある。

仕事にしても、文筆業にしても。

そして闘うことに於いても。



そう、力士とは戦うのが仕事なのである。



WWF,という組織があった。

あの、パンダがかわいくゆがんでいるあのマークの団体、ではない。
その団体と紛らわしい、として現在はWが一つ多く付いた、米国のプロ・レスリング団体だ。

闘いを見る、ということについても、ステージがある。

八百長、ということばはプロレス、と離れがたい言葉である。ケーフィ、という元祖タイガーマスクこと佐山が書いた本もある。逆の意味で”ガチンコ”という言葉もある。これは実はガチンコ以外が普通(それを八百長、というのはちょっと違うと思うが)であることをなんと示すことばだ。

池田さんはスポーツ観戦、というものに興味がなかったとおっしゃるが、私は昔から闘いを見ることが好きであった。

好きで見続けてきた、といってもいい。

WWFというものを見ると、レスラーと観客の深い一体感を感じる。こういうものだ、として見るのである。

その世界はまるでギリシャ神話である。古代のギリシャ人が神話を”信じて”いたのか。そう考えると少し違う気がする。それはまるでWWFの闘いを仰ぎ見る観客のようにそれがそういうものである、として、人生の滋味として愛した、という気がするのである。

そこには、様々な役割を担うレスラーがいる。闘いと、愛憎と、悲劇と喜劇。余裕とユーモア。そこで出てきてしまう、虚実と真実のドライブ感。団体の支配者夫婦がリングで闘う。娘はレスラーと結婚する。妻は選挙に出馬する。

そういった”人間ですもの”といった本音とも演技とも、もう本人にも判別が付かない世界を、観客が見る。

これは高度な包容力が要求される世界である。

そこで、”八百長”ということばが出ると、がくりと脱力する。

端的に話したくない、となる。”ああ、この人にはわからないのだ”。

日本の場合はもっと複雑かもしれない。異界の神として来訪するレスラーを、日本のレスラーが迎え撃つ。サイズが、肉量が、膂力が、違いすぎる。

その狭間で、受け止めきれない悲惨ささえ、見所となる。

日本のプロレス観戦者はそのような世界観が必要なのである。そこで出てくる”八百長”、もう次元が違っている。

そこにあるのは”戦い”である。闘って勝って、大金を稼ぐことも闘いの中で、ギミックなのか、本音なのか、両方なのか判然としない。この恍惚感。

そこにあるのは、戦い。体力と気力と、その全部を出したもの。巡業もケガもある。その流れがあることを知った上で、しかし”コイツは闘いをきちんとしている”。そう感じるものしか支持されない。そこには間違いなく闘いがある。生活を含むものとして。しかし、

”闘うために食べる”

人間が、最終的に支持されるのである。



大相撲、これと同じ。闘うのが仕事。そしてどんな仕事にも”食べるために闘う”人間と、”闘うために食べる”人間がいる。丁度”書くために食べる”人間がいるように。”生きるために食べる”人間がいるように。

それだけのことだ。

十両であり、幕下であり、所詮はトップではない。そこにいる人間が”食べるために闘う”のはある意味当然であろう。

闘うために食べる(稼ぐ)人間は、少なくとも強くなる。あるいは観客の心に訴える闘いをする。

わからないひとにはわからない。

池田さんが深く嘆息し、半分あきらめていたのと、同じだ。


しかし、である。



この件に関して新聞に書かれていることを読んで感じたことがある。大相撲に関してではない。それを批判する新聞、というものについてだ。


最近は新聞が支持されない、という。端的に思う。

なぜカネを払って説教されなければならないのか。

上から目線が新聞離れを加速させている、という新聞者の言葉も聞こえてくる。

しょせん出歯亀のオヤブンでしょ。

と思っている人たちから説教される。これでは新聞を読む人は減るばかりだ。

「よみうり寸評」2.3夕刊。

八百長とは言語道断で腹立たしい”

わかる。そうなんだが。

しかし、あなた、”売春はなぜいけないの”という女子高生に、悪いとわからないから悪い、人に悪くなくとも少なくともお前の魂(オカルト的ではなく)に悪い、といって説き聞かせる池田さんならともかく、

なぜあなたが言語道断で腹立たしい、とここで言い放つのですか。

と感じてしまうのである。

社会道徳、人間なら常識としてあたりまえ。この新聞のこの欄では、こういうことを言うことが求められている。

いいたいことはわかる。でも本当にそうですか?悪いことは罰せられるからやらない、という人に、わざわざそれを言うことでなにになるのか。悪いことは悪いとわかるのは大変だがすくなくともそれを気づかせる”愛”があってもいいのではないか。

人に文句を言って食べている。

そう感じてしまう。

怒ることで相手を貶める、相手より(無意識に)上の立場であることを示している、ように思う。

罪を憎んで人を憎まず、になっていない。人を憎んでいないか。

これが新聞離れの理由の一つではないか。怒るな、といっていない。”善き社会人”でありたいのもわかる。でもそこに自分はあるのか。あるいはありすぎるのか。

食べるために闘いたい、その仕方なさを認めつつ、その上を示すような遣り方で、すくなくともあってほしい、と思ってしまうのである。

無理な要求なのかなあ。



そんな文章をよんで”快哉を叫ぶ”ような人間には、少なくともなりたくない。
”あいつらはひどいことをする。人間のクズだ”

そうかあ?
そこにいるのは自分だったかもしれない。
少なくともそう思うほうに、自分は居たい気がする。

考えたらずっとそう感じてきた。なぜそうかんじるのかなあ、自分はおかしいのかなあ。

ずっと不安だった。

しかし、池田さんの本を読んだとき、そう思ってもいいんだ。

そう感じたのである。だから池田さんの本を読んだ。

そこがスタートだった。

残酷人生論

残酷人生論