夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

学校について。

最近は村上春樹氏の本をよく(といっても最近では2冊めであるが)読んでいる。小説ではなく、エッセイやインタビュー系である。同じく最近読んでいる森博嗣氏についても、エッセイや日記がほとんどだ。両氏とも本来?は小説家なので、小説を読まねば(誰に対して??)と思う気持ちがあるのだが、これは自分の性格からして時期が来れば(いわば”マイブーム”が来れば)自然に怒涛のように読みまくる気がするので、自然に任せているところである(村上氏の初期作品はだいたい読んでいるが)。

 

村上氏に親近感を感じるのは、何度も書いているが神戸で育った作家である点、そして私が第一志望にて撃沈した早稲田一文ご出身である点である。世代が違うし、行っていた学校も違うし、もっと細かいことを言えば多分氏は神戸の山の手あたり?(そういう地域呼称が神戸で当てはまっているのか不明ですが)のご出身であろうが、私はどちらかというと須磨より西の下町系の育ちではあるのだが。

 

だがあの神戸の独特のハイカラ(古い?)な雰囲気には、今こうして離れていてもいつも私の心のどこかで繋がっている気がする。村上流の言い方からすれば、”心のなかの抽斗”に大切にとってある思い出、というところだろうか。

 

氏が学生時代について書かれた文を読んで、対比して自分の学生生活を振り返りたくなった。高校時代の氏は、とにかく勉強には身が入らず、といって登校拒否になることもなく、友人やかわいい女子生徒がいることからとりあえずは毎日学校に登校されたという。あと、体育が苦手で、長らく自分は運動が苦手、と思われていたという。だが今は毎日決まった時間走り、泳ぎ、トライアスロンにも出られている(本の発行は2015年)。成績は中の上、といったところで、上位10%の50位以内には入られたことはなかった、という。

 

学生時代にはとにかく本を読まれたという。本こそが氏の学びの場であったと。考えるというより、暖炉に薪を放り込むように読みまくった、とのことだ。まだ翻訳されていない本を読みたくて、港町神戸で外人が持ち込んだ英語のペーパーバックを中古で買ってとにかくわからぬまま読み進めたともいう。それがいま多くの翻訳を出されるきっかけになり、米国で授業ができるだけの英語力醸成のベースとなったのであろう。

 

翻って、私の高校時代はどうだろうか。少し似ていて、少し違うようだ。学びに身が入らない、体育が苦手、という項は激しく類似、といっていいだろう。本も、読んでいた。だがアニメ等はほとんど見ない、とおっしゃる氏とは違い、私はごりごりとマンガを読みまくっていた。アニメを、見続けていた。ここは、世代差だろう。

 

ペーパーバックは、人生で1冊も読んでいない。翻訳が、潤沢にあったのだ。読みたい本を読み続けて、対象が尽きるという経験がなかったのだ。この差は、大きいだろう。

 

そもそも私にとっての物語は、海外のもののことだった。もっというと、ファンタジーしか、読む気がおきなかった。中学2年のころ、”これからも、できるだけファンタジー中心に読んでいこう”となぜか決心したことを思いだす。

 

どうしてかは、よくわからない。だが多分、ハイ・ファンタジー好きであったので、本の世界への逃避、という理由が強かったような気がしている。

 

こうした比較でなにか結論が出てくるわけではない。ないのだが、自分以外の人が過ごした時間と、自分の時間を並べてみることで、自分で自分の姿をすこし客観的に見ることができるような気がする。

(年上の人の姿を見ると、これから自分はどうしたいか、という視点も合わせていただけますね)

 

パンセ。

「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものの一つである。しかし、それは考える葦なのだ。人間を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や水の一滴でさえ人間を殺すに足りる。しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は自分を殺す宇宙よりも気高いといえる。なぜならば、人間は自分が死ぬことを、また宇宙のほうが自分よりも優位だということを知っているからだ。宇宙はこうしたことを何も知らない」

パスカル パンセ抄

 


有名な”人間は考える葦である”というやつの続きを読むと、だいぶそのピックアップされた一行のみから得る印象とは違ったことを言っているように思うのはわたしだけであろうか。

 

考える、ということの凄さは、宇宙よりもすごいことだ、と言っているので、同じといえば同じなんだが、宇宙と人間を比較している文章の一部である、という点が、ちょっと意外というか。

 

人間であること、は宇宙であること、よりもすごいことだ、と思うことは面白いと言えば面白い。なにがどう凄いかはよくわからないが、だが”何言ってんの?”というトンデモ感はなく、”いやなるほど”と思うという点ではさすが名著、名言、ということだろう。

 

そしてこの言葉を読むと、なんとなく自分はすてたものではない、というか、人間って面白いかも、とか、そんな気持ちもそこはかとなく湧いてくる場合もあるかもしれない。そうか、葦ではあるが、考える、ということは最強武器なのか。

 

わが敬愛する池田晶子さんの、そして私が座右の銘としている素晴らしい喝、”悩むな!考えろ!”にも通じる気がする。考えることは、時間と地平を超えて、宇宙の果てをも突き抜ける。スピードとしては、光の比ではない。

 

素晴らしいことを”考える”のと、しょうもないことを”考える”のとではもちろん素晴らしいことのほうがいいような気もするのだが、考えているのなら(たんなる情報への反射・反応ではないのなら)しょうもなくてもそれはそれで、という感じも実はある。

 

いやなにがいいたいのか、よくわからなくなっては来たが。

 

まあ、結局やはり世界の名言、と言われることばは、なかなかやはり味わい深いなあ、ということになるでしょうか。

 

(「パンセ」は前に購入した記憶があります。積読中にどこかにうずもれてしまいましたが。。。。泣)

生まれたわけ。

生まれてしまった。

 

あとは、エゴ、依存、比較、承認欲求に気をつけて

餌場をなんとか確保しよう。

 


というのが生きることなのかな、と最近思っている。

 

エゴ、は生きるためのこれまでの先祖の智慧(明確化されているわけではないが)を本能、という形で伝えてくれる面もあるので、それはエゴではないか、という注意をしつつも、上手く付き合っていくべきだ。

 

だが、エゴはうそつきでもあるので、時に義務感や”ねばならない(いっしょかな?)という思いに乗せてやることを指示することがある。だが、それは”他の個体を蹴落として、自らのみが生き残るための戦略”でありすぎることがある。

 

動物として、よりよい子孫・種族を残すための乗り物(=つなぎ)としての個体としては、この”エゴ”の指令はおおむね正しい、といえるのだろう。

 

だが、”蹴落とす”がいまの人間のしぐさとしては、時にやりすぎ、ときに人間があたらしく人間用に築いてきた、そして築いてゆこうとしているルールに照らすと、やりすぎることがある、という意味だ。

 

依存、は生きるための目的を探しすぎると発生するようだ。丁度いい”目的”に見えるものがある時には、人はそれに依存する。例えば親子関係。小さいときは庇護を必要とする子供を、大人になっても庇護し支配する。子供は時に反発するが、その庇護が楽であればそのままそこにとどまる場合もある。これが相互依存だ。

 

だが永遠には続けられないし、続けるべきではない。親が年老いれば、子供の庇護はできなくなる。庇護され続けた子供は、ひとりで生きる能力に欠ける場合がある。

 

そこを見極めなければならない。

 

人間関係だけではない。酒やタバコ、ギャンブルやドラッグ、といったものに依存しすぎるとまずいことは、いうまでもない。恋愛やゲーム、というのも過度な依存は危険であろう。

 

比較、についてはこれも意識的に付き合うべきものだろう。全く必要がない、とは思わない。だが人との比較、とは人より自分が優れるべき、という基準。人のレベルが低ければ、ちょっと高いだけでもいい。人のレベルを下げてやれば、自分はこのままでもいい。

価値を絶対値で見られなくなる。

 

価値の絶対値を頭に置いて、自身が生きるための力を付けるための方便として、意識して比較する、というくらいがいいだろう。そしてある程度力がつけば、比較はやめて自身による絶対評価、それに切り替える。

 

そのためには自身で評価できるだけの意識と知見が、必要になるが。

 

承認欲求。これは上記の依存や比較と地続きの意識だ。重なっている部分も多い。

評価を自分ではなく他人においてしまうことの、質的なリスクと獲得困難性(獲得が自分でコントロールできないこと)が問題だ。

 

他人による承認は、安易であるとともに、甘美である。中毒性、依存性が高いのだ。

麻薬、と似ているかもしれない。離脱が、結構困難なのだ。

独りよがりに、ならぬように、自己で自己を承認する、というのがやはいいように、思っている。これは、けっこう、難しい。

 


最後の餌場確保。これが最難問だ。

どうしたらいいか、わからない、というか、究極の個別案件だ。

いまは、なかなかしんどいような気がしている。

 

働き場は、今後どんどんなくなっていく気もしている。なんとなくだが。

(結局、自分を見つめ続けるしか、ないのかもしれません・・)

匿名性について

FACEBOOKが発生したアメリカ等海外で、なぜに世間で実名を公表することが可能であるのか、を考えてみたい。

 

① 匿名での発言が、卑怯と思われている世界である。
→実名での発言でないと、影響力が発揮できない、あるいは発生しない。


② 日本では、匿名の発言に匿名で反応でき、同意でき、攻撃できるWEB空間である。匿名の相手に、匿名でぶつかれるので、その発言内容はより本音であり、より限界がない。
→実名を出しても、匿名で攻撃されることになる。それはしんどい(叩かれ損になる)。


③ みんなが実名である世界では、匿名での攻撃は卑怯で姑息なものと認識されがちであり、匿名発言者の自尊感も毀損する。自然自身も実名で、となりがちである。
→そこで仮に匿名で攻撃をうけても、匿名であるだけで”姑息な相手“という印象がアメリカWEB空間では共有される。したがってそうした相手に反応する必要もない。

 

そのあたりだろうか。なので、現状みんなが実名な米WEB空間に新規参入するなら実名で、現状みんなが匿名である日WEB空間への新規参入は匿名で、となるのであろう。
つまり、大勢の発言姿勢が変わらないと、実名中心か、匿名中心かは変わらない、ということになる。ただし


④ 匿名WEB空間主体である日本人にとって、実名で“堂々と”議論している米WEB空間はよりまぶしく、正しい空間であるような、ひねくれた気持ちになってしまう。

 

という副作用はあるだろう。だがこうして自分で整理してみると、それぞれの現状ではしかたがない、とも思う。

 

より本質的には、議論の姿勢や経験の差、というところが原因であろう、つまり


⑤ 議論を議論として行うことを教育されるものと、そもそも議論が存在しない世界の差。どんな暴論と思われることを思っていても、議論を離れれば友人となれる社会空間にいるものと、自分とは別の意見を持っている時点で敵認定となる社会空間にいるものとの差である。
→いままでの日本空間では、本質的な議論、はほぼ存在していない。”日本的議論“では議論する者同士の属性やSPECが大きく影響するので、正しい議論となることはほとんどない。特に政治空間では。議論したくても、議論で例えば”年長者“に勝ってしまえば、一生恨まれるリスクがある。そもそも議論=勝負、と思ってしまうこと自体、非常にプリミティブな状態である。

 

こんな社会に居れば、議論することを忌諱する気持ちになるのは自然である。

だが、このコロナで、このどうしようもない議論不毛地帯である日本で、違った景色が見えてくる気がしている。

つまりは、WEB会議が今後デフォルトとなってくる、という変化に伴う、人々の意識の変化である。

森喜朗氏が、女性は発言が長くめんどくさい、といって叩かれ辞任したわけだが、これはWEB会議により氏が面倒な気持ちを持ったことが遠因では、と思っている。
つまり、

 

面着会議では、森氏はじめ重鎮がめんどくさすぎて、女性陣のみならず若手陣もすなおな発言をする気がしない(→面倒な反応をされてしまいそう)。

 

最近のWEB会議では、顔出しも減ってきた。そういう場であれば、自身の経験からも、発言することの心理ハードルは凄く下がっている。

 

全くの推測だが、コロナで森氏が出席するWEB会議もあったのではないか。そこで心理ハードルが下がれば、面着では森氏が聞いたこともないような発言が活発になされたのかもしれない。
そこで森氏は“女性は発言が長い”という感想を得たのではないだろうか。

 

WEB会議が普通の社会の会議体となると、いままで面着では発言が苦手であったものが、発言しだすのである。私もリアル会社で、経験している。ちょっと発言してみるかな、という感じになりうる。そこでは面着による“空気の醸成”がないのである。ここで私のような若造が発言していいわけない、というような思いはありうるが今までとくらべて少ないだろう。

 

そうなると、会議は純粋な“議論の中身勝負”となるだろう。個人の実力と真価同士のぶつかり合いだ。議論としてはあらまほしい方向ではあろうが、経験、人脈、雰囲気、めんどくささで会議をリードし、押さえつけてきたような年長者は、そこに実力がなければお役御免になってしまう。

 

厳しい、競争社会の開始でもある。あたらしい仕組み、あたらしい、アイデアがより有用である世界で、旧いSPECの人間はお役御免となってしまう。

 

変化の時期である。だが上記で考えると、より欧米のように”社会人になったのちも学び続ける“(=最新情報をインプットし続ける)という必要性が、急激に高まることになるのだろう。

しかし、変化がある場合、急なシフトチェンジが困難な世代(能力的に)は、生きていくのが難しい世界に、なる面もあるだろう。


匿名性をひっぺがす方向で、日本の匿名空間が変わってくる可能性もある。“言論暴行罪”のように、相手に心理的暴行を加えた場合は匿名でのものであっても個人を訴訟により特定できる、という方向となる可能性が高まっている。WEBでは発信者はその気になれば特定は容易であろうから、その方向になれば、実際のWEBでの個人攻撃は減ってゆくことになるだろう。

このあたり、難しい問題だが、ハラスメント問題同様、時代により判断が変わってゆく項目であるのだろう。


(いい方向ではありますが、過去の情報がのこってしまう、という面からすると、遡及が可能だといろいろな意味で微妙ですね。もちろんわたくし、FACEBOOKは怖くてやっていません。。)

カスハラ。(なぜに私は言葉を略したいのか)

日本において、外来語を略すこと。この事象の発生理由を考えてみた。


私が考える理由は、

①そもそも英語が嫌い

②本来の英語自体があまり日本人には意味がわからない

③略すことで、”わけのわからないことばを征服してやった”という意味不明の達成感がそこはかとなくする

④略して本来の英語の気配を消すことで、”まあ意味はわからないが言葉として認めてやるか、気は進まないが”となる

⑤世間の傾向として使いたくもないのに使わざるを得ない


内容的にだぶっているかもしれないが、そんなネガティブな感じを、この”外来語略語”の仕組みやしぐさから、感じている。

 

例えば”イケメン“。これは外来語由来の言葉と、日本語とのハイブリッドである。「イケてる」プラス「メンズ」。


メンズ、という言葉は勝手な推測ながら例えば”メンズノンノ“あたりから来る、本来は”メン“のもの、という意味の”メンズ“と、
本来は複数形である”メン“、しかし日本語としては複数形として”ズ“を付けたくなる、ということで男性一般を示す英語的日本語として”メンズ“という語が発生し、それが混乱混合したのではないか、と考えている。


英語の文法などしったことか!と敢えて(知っていて)無視する爽快感もありそうだ。

 

更には日本語で顔のことである“面”の意味もかぶさり、多くの日本人がその語を聞くだけでなんとなく意味が分かってくることばとして受け入れられたのであろう。


従来の”ハンサム“の代替語であろう。いまでは”ハンサム“の語を聞くことはすくなくなった気がする(映画”ハンサム・スーツ“もだいぶ前ですしね)。それは”ハンサム“の語が英語そのままでヒネリも面白みも少ない”ええかっこしいの“言葉であるからかもしれない。

こうした語の語感として、軽やかであるとともに軽薄、という感じもする。身近に感じるとともに上品である、という感触はほとんどない(個人的感覚です。→密かな抵抗として、私個人的には本来の意味での”イケメン“を普段の生活で意地でも使いません)。

 

最近この”イケメン”的に、裏日本語語感とのハイブリッドを感じることばが”カスハラ“だ。(そのほかに”転売ヤー“もある)。


カスタマー・ハラスメントの略だといまは理解しているが、はじめ聞いたときは“カスな奴によるハラスメントか?カスがハラスメントするのは普通だが??”と不信の念を抱いたことを思いだす。


神戸由来の関西弁話者の私にとって、”カス“や”ボケ“は”アホ“に比べディスり度合いがより高い言葉だ。”アホ“には愛がありうるが、”カス“にはほとんど愛がない。
多分、この言葉を聞いて、関西人の何割かはそのように感じるのではないだろうか。そういう意味では”キツい言葉だ“と感じる。公の場で”カス“というのは憚られる、という感覚が、私にはある。

 

今日、新聞読書欄を珍しく読んだ。赤穂の23歳の女性が、”カスハラはやめてほしい“と訴えていた。雑貨店で働く彼女、”レシートはご入用ですか“とといかけると、男性顧客やシニア男性から”レシートはいらんが、あんたはいる“と日々いわれ続けて非常に不愉快、出社も気が重い、という内容であった。


いや、もっともである。なぜ、おっさんやシニアおっさんは、そういうことをいうのだろうかと考えた。


私の仮説はこうだ。”旅の恥はかき捨て心理による“。

 

例えば、満開の桜の下で行う宴会。無礼講、桜の下では乱れ放題が許されている。
コロナ前の花見に対する意識は、そんな感じだろう。

 

江戸時代のお伊勢参り。そこまでいかなくともそもそも”旅“。そこには”普段抑圧され切っている真の欲望を、二度と会わない旅館や旅先の人々に見られてまゆを顰められてもええやんか、爆発させようぜ!!“という気もちと、それがことわざ?というか日本人の本音のしぐさ(最近この”しぐさ“が気になっています)として人口に膾炙している、という事実もあり、勇気?を貰える、という日本人空間。


”相手から反論されない、あるいは反論されにくい“と思われるところで、本性が出る、ということだろう。それが本性でなければいいが、本性とは隠しても隠し切れない生身の内実なのである。


カスハラシニアも、家に帰って娘や妻にはそんなことを言おうものなら強烈な反撃を喰らうのかもしれない。そもそも気弱で普段から虐げられている場合もある。あるいはひとりか。


”嫌なことでも笑って聞いてくれる“感情労働者であるクラブやキャバクラへ行きたくともそんな金があるわけない。シニアだし。

 

そんなシニアが、人生が交錯しそうもない、レジの若い女性に話しかけられたら。カスハラしか、出てこないのだ。100円のマッチを買っただけの客でも、日本では”お客様は神様“ということになっている(シニアの脳内で)。普段あまりにそういう層と交わらないので、もう脳内は舞い上がっている。”若い女の子が話しかけてくれたで!こら頓智とウィットに富んだ返しをせないかんな!!!“となっているのだろう(播州弁で想定)。

 

非常に残念だが、どうブロックしたらいいのかわからない。


とりあえず、話しかけない、というのが一番だろう。カスハラりそうなシニアかどうかを見て判断、危なそうなら丁寧な声かけは我慢して(真面目に働いているひとほど、我慢はしたくないだろうが)、無言でレシートを差し出すしかないだろう。
見知らぬ人に丁寧にする、という所作は、多分そういうカスハラな人々には一生無縁のものだろうから。

 

願わくば、雇い主がそのような店員の苦悩に、寄り添ってくれればいいのだが。。場合によっては2次被害(それくらい我慢せんかい=俺もいいたい)という場合も、残念ながらありうるので。

つまりは“カスハラ”の”カス“は、カスタマーということに公的にはなっているのだが、本来の意味での”カス“が、隠れて住んでいる、そんなことばであると感じている。


(“転売ヤー”は”転売“と”バイヤー“の合体なのでしょうが、”ヤー“は”ヤーさん“が掛かっている気がします。転売行為がさもしいもの、という意識があると思うので。それと”ヤー“という文字を見た瞬間”やーさん“しか脳内に浮かばないのが、関西人あるあるではないでしょうか。。)

花見と妄言。

 

花見にいった。車で1時間強のところ、天気を考えて今日がベスト、という感覚があった。

 

今日という日に行動しよう、という外部からの強い欲求、外部といってもただ花が咲いていることに自身が反応しているだけなのだが、

 

老若男女、日本に住む多分多くの人たちに共通で到達する心理、短い期間のみ作用する環境からの欲求、としてこの”花見”というのは考えてみるとものすごく強いものだ。

 

花、に反応しているのか。その賑わいへの期待とそこへの参加の予感へのときめきの所為か。花から受ける自らの中に生まれる”美への賛歌”?

あるいは美に反応している気持ち自体が”美”であるのだろうか。

 

人にしろ、生き物にしろ、有機物にしろ、無機物と呼ばれるものにしろ、そこにたまたまあるがゆえにこうなっている、という世界にある。

そこで”生きる”という活動的な状態のものがある。”生きる”という活動的なものからは離れていると見える無機物でさえ”動く”。”変化する”。

 

その”変化”をもたらすものを、人は”時間”と名付けたのであるが、これは単なる考え方であって、”時間”というものが一つの実態としてあるわけではない。だが、時間、という考え方を知ってしまうと、人はその考え方に一生捕らわれることになる。

 

別にそのことがいけないわけではない。だが、所詮考え方だ、と時々思い出してみることは、意味がないことではないのかもしれない。

 

人は人や世界との関係について考え、そしてそれを変えたいと思うか、自然に変わるかは別として、大きく影響され、依存している。

 

だが、影響も依存も、別に義務ではない。

 

考えるまでもなく、”生まれたことに意味はない”。ただこうしてあるのみだ。だが、それではあまりに”寂しいので”人はその生きる、という日々をルールに従って生きている。赤ん坊はルールを作らない。人が、日々を作る中で自然とできてきた仕組み、それは”システム”と呼んでもいい。

 

ある程度その中で過ごすと、人の中にはそのルール、システムを自らが追加したり、変更したり、する能力や機会を得るものが出てくる。

 

多くは別にそういうことをしようと思ってするわけではない。

 

対価として、これも生きるための方便としてルール付けられただけのものである”貨幣”、これを得て自らの”生”を維持しよう、よりよくしていこう、という狭い範囲での意思がきっかけであることが多いだろう。

 

だがこうした貨幣を、生与の条件としてたまたま一族が、親が、もっていた、という人々もあるだろう。その場合は例えば仕組みを、政治あるいは芸術のようなものから変えたり、影響を与えたりしたい、という意思だけで行う場合もあるかもしれない。対価ではない、”生があまりに退屈なので、やることもないのでやってみることにして”。退屈である、とは多くの場合意識していないだろうが。退屈=生きる意味、と読み替えられているのだが。

 

ここで出てくるのが、”生まれたからにはこの世を生まれたときより1ミリでも良くして死んでいこう”という気持ちである。

 

世界は、人類は、個人にそのような要請をするわけではない。個人が勝手に、そう思うのである。生きるために食べ物を得るために働くのと、そこには別に優越はない。どちらが尊いわけではない。

 

それでも、そういった行為で、多くの同時代の人々は影響をうけるのだろう。コミュニケーション面で、今人類は大きな変化の真っただ中に、いるのだろう。

 

相互の意識の否応ない連結だ。

そこでは、もう個人である、ということが許されなくなっている。意識すればある程度は遮断はできるだろう。だが”遮断”しなければ繋がってしまうということは、既に”連結”がデフォルトだ。スタンダードだ。

 

文字により書物で伝える、という行為は早晩画面にとって代わられるだろう。ある程度の期間は並走するだろう。好事家や回顧主義者は書物に固執することも可能だろう。だが真の意味では紙への印刷は、既に終了が確定している。

 

そこでは言語の壁はない。機能がよりブラッシュアップされれば、言葉はWEB空間で問題なく瞬時に翻訳され伝え合われる。映像は、例えば器具により”立体的空間に””あたかも実際に出合い語らう、あるいは見ているような形で””自らもその中に参加しているような感覚で”感じるものに、もうすぐなるのだろう。マトリックスで提示されていることを人はディストピアであるように感じはするが、あれは単なる未来予知だ。1970年万博で、未来都市を想像していた行為と、本質的には変わらない。娯楽、ではない。

 

人と人との境界がなくなる。

私とあなたの境界がなくなる。

人は”人類という大きな意識の一つの細胞、あるいは触角”となる。

個人という意識も次第になくなる。あるいは大きく変容する。

動物とも、無機物とも、宇宙とも、境界はなくなってゆくのだろう。

すべてが、一となる。別にAIが支配するわけではなく。

だが、AIがきっかけにはなるだろう。

 

自らがなくなる、ということは、恐怖でもある。人は死んで肉体を失い、(精神がどうなるのかは死んでいないのでわかりませんが)一つへと還ってゆくまえに、生きているうちから一に溶け込む存在となるのだろう。

生と死の融合。

死さえ”存在”の一形態としてとりこまれる。あるいはその逆。

 

1万年位したら、多分そうなっている。

その時、大きな転換時期として、いま、この時期が認識される気がしている。

その時代を、いま私は、皆さんは、実体験、しているわけである。

べつにそのことが、なにか大したことでは、ないのであるが。

 

1万年、長い時代だ。

だが地層を掘り起こせば、我らが祖先、恐竜たちが眠っている。恐竜たちはそれこそ数億年前の、存在だ。

だが、そこに、いた。

 

そう考えると、1万年は大したことがない。1000年だったらなおさらだ。

その時、人類は自らのことを、いったいなんと呼んでいるのだろうか。

 

 

 

ジャック・ドュミ。

引き続き私的ジャック・ドゥミブーム中。

 

山田宏一氏が実際にドゥミに行ったインタビューを読んだ。

 

映画も小説もマンガもTVも、物語を表現する一手段であるが、森博嗣氏がおっしゃるように小説なら一人で制作できる。映画はそうはいかない。

 

ジャック・ドゥミの少年期、という彼の奥さんが撮った作品を見ると、映画が娯楽の王様であった時代、ナントの港町で自動車修理工房の父と、美容師の母の間に生まれたドゥミは、映画の世界にどうしようもなく魅せられ、魅入られた。

 

私にもその気持ちがわかる。この現実の中に自分があり、現実ではない世界を見せられたら。そこに限りなく魅せられるであろう。1931年生まれのドゥミの日常にはTVはない。プリミティブな形でのマンガはあったのかもしれないが。人々が接する娯楽としての別世界、物語は映画か例えばオペラ、例えば人形劇という形で提供された。

 

それらの手段を通してドゥミは、芳醇な物語の世界に接し、自らもそれを作り出したい、と願ったのだ。

 

私の場合は映画(ディズニー等)はあったが、頻度では当然TVアニメ、そして絵本やマンガであった。接した手段は違っても、物語への憧憬という意味ではおんなじなのだ。だから、私はドゥミに共感するのだろう。

 

手回しの映写機を購入し、セットのフイルムを何度もみるが、自分のフイルムを作りたくてフイルムの画像を消してそのフイルムに自ら字や絵を描く。それを家族に見せる。自作を発表する楽しみをそうして体験する。

 

簡単なフイルム動画を撮影できる機械を母親に買ってもらう。配役を考え、身近な人に出演してもらい、制作にトライする。露出?が多く、現像に出したフイルムは真っ白だ。幼少時より映画で親しんだ物語は当然大人向けだ。少年だがその作る物語は大人向けである。その頃は子供むけの映画は、ほとんどなかったのだろう。大人向け、という意識はたぶん彼にはない。物語とは、そういうものなのだ。

 

眼の前の家に住む同世代の美少女は、進駐してきたアメリカ兵に夢中で、ドゥミの映画に出演してくれない。映画には、女優が必要なのだ。女優は、美しいことが必要なのだ。仕方なく、彼はコマ取りの人形(というか平面人形なのでアニメというべきか)を使って映画を撮る。そこでは監督ドゥミの指示通りにすべてが創造されてゆく。少女は父親不明の(たぶんアメリカ兵)妊娠をする。その時代のフランスには、多分宗教的にも中絶はなかったのか。あるいはお国がらか。他人の子をはらんだ娘と普通に結婚する”シェルブールの雨傘”のドヌーヴが、その相手が不思議だったが、フランスでは当たり前ではなくとも、少なくともありうること、だったのであろう。どちらも、戦争が、おこしたことだ。そこがドゥミにとっての、反戦だ。

 

フランスは、ドイツに占領され、アメリカによって解放された。そのフランスで映画を作ること。当然ながら資金あつめが大変だ。映画の本場はアメリカ。アメリカに出ていって映画を撮る、ということは、いわば大正期の日本人画家が美術の本場パリに行って絵を描くようなものかもしれない。

 

その前にドゥミは父親を説得せねばならない。子供に理解のある母親だが、父親は自らの家業を継ぐための技術を学ぶようにいう。いやいやながらキチンと学ぶが、余暇はすべて映画につぎ込む。最後に折れて父親は彼がパリで映画を学ぶことを許してくれるのだ。

 

フランス・ヌーベルバーグの監督は、ドゥミ以外はすべてブルジョワ階級であるという。本来はその所属階級からはたどり着けない職業を、彼はその熱意で獲得するのだ。であれば、当然その作品はその夢の、自らの内に確固としてあるサーガの、実現でのみありうる。

 

そこが苦しんだところなのだろう。一作ごとに資金繰りに苦慮する。前作があたらないと、次作の制作は困難を極める。作りたい作品を作るために、注文仕事もこなすのだが、どうしてもそこに自身の色を織り込んでしまう。それは隠せない。見えてしまって完全な注文しごとにはなりえないのだ。

 

日本資本、オール海外ロケ、海外配役で”ベルサイユのばら”を制作している。当時はバブル期であったのか、ベルばら人気、資生堂タイアップという布陣でドゥミは制作を請け負っている。だが、原作に忠実にはなりえない。それはそうだろう、フランス人が自国の革命を自国俳優を使って撮影するのだ。そしてそれは日本人が作ったストーリー。池田原作にはなにも罪はない。中国人が描いた中国向けの日本人だけが出てくるマンガを、日本で日本人監督がオール日本人俳優で撮影する、そして公開はほぼ中国のみ、と考えればその特異性はおわかりだろう。

 

原作がマンガであることも苦しいところだ。主に見る日本人観客にはすでにオスカルの、アンドレの映像が抜きがたく入っている。日本人にとっては単なる実写化、ともいえるだろう。だがドゥミにとっては、その部分をどれだけ理解できるだろうか。指示に従おうとしても、自国の、西欧俳優による、自国の歴史を描く映画にしか、できないではないか(すみません、いろいろ言ってますが未見です汗)。

 

この本(シネマ・アンシャンテ)でドゥミが語るところでは、”モン・パリ”公開後の5年間、ミュージカルは金がかかるということで次々に企画が没になり絶望的になっていた時に舞い込んだ話だという。ジョージ・キューカートニー・リチャードソンフランシス・コッポラと次々に監督を断られたあとに話が来たとのことで、オスカル役にははじめはドミニク・サンダが予定されていたという。プロデューサーは、1970年代に小山ゆうのマネージャーをしていたという山本又一郎(小山ゆうの”あずみ”の映画化時には脚本も書いている)。夢枕・天野の”吸血鬼ハンターD"にも関わったとあるので、マンガ実写化という試みには適任の方だと思う。

 

ドゥミはサンダなら文句なしに素晴らしい、と思っていたらしいが、ギャラの関係か英出身でフランスで活躍するカトリオーナ・マッコールに変更となり、”余り官能的なニュアンスのない女優なので”とテンションが下がっている。本作はアンドレやオスカルが死なず、当時は宝塚で歌劇が大評判という時期でもあり日本での評価は良くなかった、ということだが、果たして”官能的で文句なし”との思いでデゥミ監督がサンダでノリノリで撮影したのであればどんな映画となったのだろうか、と想像するのも面白い。

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ドミニク・サンダ

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              カトリオーナ・マッコール


 

映画を作る。資金を提供してもらうことが前提だ。なぜに日本映画を、と思ったが、考えてみるとドゥミにとって、アメリカで資金を提供してもらい映画を撮ることと、日本で資金を得て映画を(これは自国で)撮ることは、もちろん同じではないが、同根のことでは、あったのだろう。

 

シェルブールが受けて、2作目でロシュフォールを撮る際、ドゥミははじめはオードリー・ヘプバーン(1928年生まれなので映画製作の1966年5月31日クランクインであれば30台後半)とブリジット・バルドー(1934年生まれ)で撮ろうと思っていたという。170センチのヘプバーンと163センチのバルドー、ブルネットと金髪(これは実際の作品でも踏襲されたが)、当然姉妹ではない設定だ。だがそうした映画がもし制作されていれば、どんな絵だったのか、と想像するのも楽しくはある。バルドーは受けたが、ヘプバーンが断り、その後バルドーも断ったそうだが。

 

その結果生まれた年子の実姉妹を双子として設定したロシュフォール、翌年姉が自動車事故で他界している(1967年6月26日、25歳)こともあり、映画史に残る傑作になったと思う。だがすでにハリウッドではミュージカルは下火、それをフランスで制作、というのは難しい面もあったのだろう。日本では大いに受けた(それが後年のベルばらにつながったのか)ようだが、本国フランスでの受けはあまり良くなかったという。

 

インタビューでドゥミは、自らのサーガ作りの内幕を開陳している。自らが幼少期から見た映画の地続きにとして、”映画”という大きな流れに属するものとして、映画を撮っていたのであろう。”LORA"の名前は敬愛するマックス・オルフェウス監督の遺作、「歴史は女で作られる」(1955)の原題、「ローラ・マンテス」から来ていると思われ、14歳の時に見てこれこそ映画だ、という天啓を受けたというロベール・ブレッソン監督の「ブローニュの森の貴婦人たち」〈1945)でマリア・カザレスと共演したキャバレーダンサー役のエリナ・ラブールデッドが「ローラ」では10代の未婚の母、デノワイエ夫人として登場する。作中でロラン・カッサールの想い人(ローラ)がダンサーであると聞いて、私も若いころダンサーでした、と”ブローニュ”のスチール写真を見せるのである。つまり、物語は繋がっている。敬愛する作品と、繋げているのだ。

 

当然ながらシェルブールロシュフォールも地続きだ。劇中であとで30年来想い続けた踊り子を殺して並べたとわかる老紳士が、(殺したあとだと思われるが)その母親が経営するカフェでカトリーヌ・ドヌーヴ演じるデルフィーヌに、昔シェルブールで会った娘に似ている、と何度か言い、デルフィーヌに”しつこいわね”と言われるシーンがあり、どうにも違和感があったのだが、インタビューでドゥミが内幕を語っている。

 

もともとシェルブールでドヌーヴと結ばれなたったギイが、友人で今回のドヌーヴの”約束の恋人”たる水兵のジャック・ぺランとロシュフォールにやってきて、”あなたは僕の初恋のひととそっくりだ”というと、ドヌーヴが”似てるけど、わたしのほうがきれいでしょ”という流れを予定していたという。

 

結局ギイ役のニーノ・カステルヌオーヴォがイタリアのTVのギャラの方がよく出演を断ったので、やむなくセリフでそのつながりを示唆した、というのだ。

 

いわゆる繋がりを示すカメオ出演のようなものだろうが、これを読んであのシーンのわけのわからなさが解消した。

 

いろいろ書いてきたが、ヌーベルバーグ映画が低予算で作られる実験的な映画であるのなら、デゥミの映画はミュージカル仕立てで完全セットが必要な、費用も2-3倍かかる映画であるという。実際の映画製作では予算がなく挫折の連続です、とドゥミもいう。ギリシャ神話的な父と娘の近親相姦、未婚の母や反戦思想等、オペラやミュージカルがとにかく好きで、その世界へこうした重いものを無理やりねじ込む世界観。すべての映画は大きな映画サーガのなかで繋がっている。前半に比べ、現在は評判の芳しくない後期の作品の再評価もこれからだろうと思う。

 

そんなジャック・ドゥミ監督の作品群は、とにもかくにも現在の私にとって、大変に魅力的なもの、なのである。

 

参考図書

山田宏一濱田高志 「ジャック・デゥミ ミシェル・ルグラン シネマ・アンシャンテ」2017年 立東舎刊

 

 

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