夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

生まれたわけ。

生まれてしまった。

 

あとは、エゴ、依存、比較、承認欲求に気をつけて

餌場をなんとか確保しよう。

 


というのが生きることなのかな、と最近思っている。

 

エゴ、は生きるためのこれまでの先祖の智慧(明確化されているわけではないが)を本能、という形で伝えてくれる面もあるので、それはエゴではないか、という注意をしつつも、上手く付き合っていくべきだ。

 

だが、エゴはうそつきでもあるので、時に義務感や”ねばならない(いっしょかな?)という思いに乗せてやることを指示することがある。だが、それは”他の個体を蹴落として、自らのみが生き残るための戦略”でありすぎることがある。

 

動物として、よりよい子孫・種族を残すための乗り物(=つなぎ)としての個体としては、この”エゴ”の指令はおおむね正しい、といえるのだろう。

 

だが、”蹴落とす”がいまの人間のしぐさとしては、時にやりすぎ、ときに人間があたらしく人間用に築いてきた、そして築いてゆこうとしているルールに照らすと、やりすぎることがある、という意味だ。

 

依存、は生きるための目的を探しすぎると発生するようだ。丁度いい”目的”に見えるものがある時には、人はそれに依存する。例えば親子関係。小さいときは庇護を必要とする子供を、大人になっても庇護し支配する。子供は時に反発するが、その庇護が楽であればそのままそこにとどまる場合もある。これが相互依存だ。

 

だが永遠には続けられないし、続けるべきではない。親が年老いれば、子供の庇護はできなくなる。庇護され続けた子供は、ひとりで生きる能力に欠ける場合がある。

 

そこを見極めなければならない。

 

人間関係だけではない。酒やタバコ、ギャンブルやドラッグ、といったものに依存しすぎるとまずいことは、いうまでもない。恋愛やゲーム、というのも過度な依存は危険であろう。

 

比較、についてはこれも意識的に付き合うべきものだろう。全く必要がない、とは思わない。だが人との比較、とは人より自分が優れるべき、という基準。人のレベルが低ければ、ちょっと高いだけでもいい。人のレベルを下げてやれば、自分はこのままでもいい。

価値を絶対値で見られなくなる。

 

価値の絶対値を頭に置いて、自身が生きるための力を付けるための方便として、意識して比較する、というくらいがいいだろう。そしてある程度力がつけば、比較はやめて自身による絶対評価、それに切り替える。

 

そのためには自身で評価できるだけの意識と知見が、必要になるが。

 

承認欲求。これは上記の依存や比較と地続きの意識だ。重なっている部分も多い。

評価を自分ではなく他人においてしまうことの、質的なリスクと獲得困難性(獲得が自分でコントロールできないこと)が問題だ。

 

他人による承認は、安易であるとともに、甘美である。中毒性、依存性が高いのだ。

麻薬、と似ているかもしれない。離脱が、結構困難なのだ。

独りよがりに、ならぬように、自己で自己を承認する、というのがやはいいように、思っている。これは、けっこう、難しい。

 


最後の餌場確保。これが最難問だ。

どうしたらいいか、わからない、というか、究極の個別案件だ。

いまは、なかなかしんどいような気がしている。

 

働き場は、今後どんどんなくなっていく気もしている。なんとなくだが。

(結局、自分を見つめ続けるしか、ないのかもしれません・・)