花見にいった。車で1時間強のところ、天気を考えて今日がベスト、という感覚があった。
今日という日に行動しよう、という外部からの強い欲求、外部といってもただ花が咲いていることに自身が反応しているだけなのだが、
老若男女、日本に住む多分多くの人たちに共通で到達する心理、短い期間のみ作用する環境からの欲求、としてこの”花見”というのは考えてみるとものすごく強いものだ。
花、に反応しているのか。その賑わいへの期待とそこへの参加の予感へのときめきの所為か。花から受ける自らの中に生まれる”美への賛歌”?
あるいは美に反応している気持ち自体が”美”であるのだろうか。
人にしろ、生き物にしろ、有機物にしろ、無機物と呼ばれるものにしろ、そこにたまたまあるがゆえにこうなっている、という世界にある。
そこで”生きる”という活動的な状態のものがある。”生きる”という活動的なものからは離れていると見える無機物でさえ”動く”。”変化する”。
その”変化”をもたらすものを、人は”時間”と名付けたのであるが、これは単なる考え方であって、”時間”というものが一つの実態としてあるわけではない。だが、時間、という考え方を知ってしまうと、人はその考え方に一生捕らわれることになる。
別にそのことがいけないわけではない。だが、所詮考え方だ、と時々思い出してみることは、意味がないことではないのかもしれない。
人は人や世界との関係について考え、そしてそれを変えたいと思うか、自然に変わるかは別として、大きく影響され、依存している。
だが、影響も依存も、別に義務ではない。
考えるまでもなく、”生まれたことに意味はない”。ただこうしてあるのみだ。だが、それではあまりに”寂しいので”人はその生きる、という日々をルールに従って生きている。赤ん坊はルールを作らない。人が、日々を作る中で自然とできてきた仕組み、それは”システム”と呼んでもいい。
ある程度その中で過ごすと、人の中にはそのルール、システムを自らが追加したり、変更したり、する能力や機会を得るものが出てくる。
多くは別にそういうことをしようと思ってするわけではない。
対価として、これも生きるための方便としてルール付けられただけのものである”貨幣”、これを得て自らの”生”を維持しよう、よりよくしていこう、という狭い範囲での意思がきっかけであることが多いだろう。
だがこうした貨幣を、生与の条件としてたまたま一族が、親が、もっていた、という人々もあるだろう。その場合は例えば仕組みを、政治あるいは芸術のようなものから変えたり、影響を与えたりしたい、という意思だけで行う場合もあるかもしれない。対価ではない、”生があまりに退屈なので、やることもないのでやってみることにして”。退屈である、とは多くの場合意識していないだろうが。退屈=生きる意味、と読み替えられているのだが。
ここで出てくるのが、”生まれたからにはこの世を生まれたときより1ミリでも良くして死んでいこう”という気持ちである。
世界は、人類は、個人にそのような要請をするわけではない。個人が勝手に、そう思うのである。生きるために食べ物を得るために働くのと、そこには別に優越はない。どちらが尊いわけではない。
それでも、そういった行為で、多くの同時代の人々は影響をうけるのだろう。コミュニケーション面で、今人類は大きな変化の真っただ中に、いるのだろう。
相互の意識の否応ない連結だ。
そこでは、もう個人である、ということが許されなくなっている。意識すればある程度は遮断はできるだろう。だが”遮断”しなければ繋がってしまうということは、既に”連結”がデフォルトだ。スタンダードだ。
文字により書物で伝える、という行為は早晩画面にとって代わられるだろう。ある程度の期間は並走するだろう。好事家や回顧主義者は書物に固執することも可能だろう。だが真の意味では紙への印刷は、既に終了が確定している。
そこでは言語の壁はない。機能がよりブラッシュアップされれば、言葉はWEB空間で問題なく瞬時に翻訳され伝え合われる。映像は、例えば器具により”立体的空間に””あたかも実際に出合い語らう、あるいは見ているような形で””自らもその中に参加しているような感覚で”感じるものに、もうすぐなるのだろう。マトリックスで提示されていることを人はディストピアであるように感じはするが、あれは単なる未来予知だ。1970年万博で、未来都市を想像していた行為と、本質的には変わらない。娯楽、ではない。
人と人との境界がなくなる。
私とあなたの境界がなくなる。
人は”人類という大きな意識の一つの細胞、あるいは触角”となる。
個人という意識も次第になくなる。あるいは大きく変容する。
動物とも、無機物とも、宇宙とも、境界はなくなってゆくのだろう。
すべてが、一となる。別にAIが支配するわけではなく。
だが、AIがきっかけにはなるだろう。
自らがなくなる、ということは、恐怖でもある。人は死んで肉体を失い、(精神がどうなるのかは死んでいないのでわかりませんが)一つへと還ってゆくまえに、生きているうちから一に溶け込む存在となるのだろう。
生と死の融合。
死さえ”存在”の一形態としてとりこまれる。あるいはその逆。
1万年位したら、多分そうなっている。
その時、大きな転換時期として、いま、この時期が認識される気がしている。
その時代を、いま私は、皆さんは、実体験、しているわけである。
べつにそのことが、なにか大したことでは、ないのであるが。
1万年、長い時代だ。
だが地層を掘り起こせば、我らが祖先、恐竜たちが眠っている。恐竜たちはそれこそ数億年前の、存在だ。
だが、そこに、いた。
そう考えると、1万年は大したことがない。1000年だったらなおさらだ。
その時、人類は自らのことを、いったいなんと呼んでいるのだろうか。