夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

学校について。

最近は村上春樹氏の本をよく(といっても最近では2冊めであるが)読んでいる。小説ではなく、エッセイやインタビュー系である。同じく最近読んでいる森博嗣氏についても、エッセイや日記がほとんどだ。両氏とも本来?は小説家なので、小説を読まねば(誰に対して??)と思う気持ちがあるのだが、これは自分の性格からして時期が来れば(いわば”マイブーム”が来れば)自然に怒涛のように読みまくる気がするので、自然に任せているところである(村上氏の初期作品はだいたい読んでいるが)。

 

村上氏に親近感を感じるのは、何度も書いているが神戸で育った作家である点、そして私が第一志望にて撃沈した早稲田一文ご出身である点である。世代が違うし、行っていた学校も違うし、もっと細かいことを言えば多分氏は神戸の山の手あたり?(そういう地域呼称が神戸で当てはまっているのか不明ですが)のご出身であろうが、私はどちらかというと須磨より西の下町系の育ちではあるのだが。

 

だがあの神戸の独特のハイカラ(古い?)な雰囲気には、今こうして離れていてもいつも私の心のどこかで繋がっている気がする。村上流の言い方からすれば、”心のなかの抽斗”に大切にとってある思い出、というところだろうか。

 

氏が学生時代について書かれた文を読んで、対比して自分の学生生活を振り返りたくなった。高校時代の氏は、とにかく勉強には身が入らず、といって登校拒否になることもなく、友人やかわいい女子生徒がいることからとりあえずは毎日学校に登校されたという。あと、体育が苦手で、長らく自分は運動が苦手、と思われていたという。だが今は毎日決まった時間走り、泳ぎ、トライアスロンにも出られている(本の発行は2015年)。成績は中の上、といったところで、上位10%の50位以内には入られたことはなかった、という。

 

学生時代にはとにかく本を読まれたという。本こそが氏の学びの場であったと。考えるというより、暖炉に薪を放り込むように読みまくった、とのことだ。まだ翻訳されていない本を読みたくて、港町神戸で外人が持ち込んだ英語のペーパーバックを中古で買ってとにかくわからぬまま読み進めたともいう。それがいま多くの翻訳を出されるきっかけになり、米国で授業ができるだけの英語力醸成のベースとなったのであろう。

 

翻って、私の高校時代はどうだろうか。少し似ていて、少し違うようだ。学びに身が入らない、体育が苦手、という項は激しく類似、といっていいだろう。本も、読んでいた。だがアニメ等はほとんど見ない、とおっしゃる氏とは違い、私はごりごりとマンガを読みまくっていた。アニメを、見続けていた。ここは、世代差だろう。

 

ペーパーバックは、人生で1冊も読んでいない。翻訳が、潤沢にあったのだ。読みたい本を読み続けて、対象が尽きるという経験がなかったのだ。この差は、大きいだろう。

 

そもそも私にとっての物語は、海外のもののことだった。もっというと、ファンタジーしか、読む気がおきなかった。中学2年のころ、”これからも、できるだけファンタジー中心に読んでいこう”となぜか決心したことを思いだす。

 

どうしてかは、よくわからない。だが多分、ハイ・ファンタジー好きであったので、本の世界への逃避、という理由が強かったような気がしている。

 

こうした比較でなにか結論が出てくるわけではない。ないのだが、自分以外の人が過ごした時間と、自分の時間を並べてみることで、自分で自分の姿をすこし客観的に見ることができるような気がする。

(年上の人の姿を見ると、これから自分はどうしたいか、という視点も合わせていただけますね)