夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

「風の歌を聴け」読後感。

村上春樹 風の歌を聴け を読了した。

 

前にいつ読んだのかは全く記憶がない。のだが確かに読んでいる。前回は特に事前情報なく読み進めたわけだが、今回は本作に対する村上さん自身の思いを読んでから再読したことになる。

 

全く初めての作品であり、若書きであるゆえに今の村上さんにとっては恥ずかしく思われる面もあるのかもしれないが、大変に楽しく読んだ。前の時はこれがわが郷里神戸の物語であることはわからなかった。なぜならば言葉が違うからである。

 

別に文中で街を特定する部分はなかったように思う。そして物語がどこの言葉で語られるのか、で纏う空気が変わってくる。本作は共通語により書かれたことで、よりいろいろな人々に伝わりやすくなっていると思う。

 

29歳の村上さんは、神戸を18歳で離れてから10年以上経っている。東京暮らしが10年以上、ということだ。脳内での独り言が、神戸の言葉になるのか、共通語となるのか、人によってそれぞれだろう。私の場合は神戸を離れて随分経つが、会社では共通語、家では神戸弁、なので独り言のイントネーションの変化は特にはないようだ。

 

読み終わって、WIKIPEDIAを開いた。1979年の古い作品なので、いろいろな追加情報がある。何点か面白いと思ったことがあった。

 

本作は、芥川賞にノミネートされている。1981年に映画化されている。

 

そして文中で重要な役割を果たしている米国の作家、デレク・ハートフィールドが架空の人物であった、ということも興味深かった。

 

作家の森博嗣氏は、小説とは作者がなんでも自由にしていい場である、とおっしゃっている。読み進んで、どうも実際にそういう作家がいるようだ、と思わされたこの手法、

そして単行本のみに収録されている”あとがき”に”僕”がハートフィールドの墓地に行ったことが書かれていること、そしてハートフィールドが架空の作家であるのであれば、このあとがきさえも”架空の”ものであること、

そのことに重層的な感銘を受けたのだ。

 

私と同じように、この作家が実在であると読んで、図書館に本の探求を依頼する人があとを絶たず、困惑した、という図書館員のコメントも大変面白い。

 

小説とは、その中に世界を創ることである。その世界は、100%作者が自由にすることができる。作者はそこでは文字通り、”創造主”である。

 

人に読んでもらうということから、例えば正しい事実にのみ依拠する、という小説がある。一方で、この作品のように、主人公が文中で引用する小説家が重層的に創作されており、そのことが物語の独立度を上げている、というような小説もまた存在する。その純粋な”創作物である”という感覚が、深い余韻を残す。

 

WIKIPEDIAに掲載されている、芥川賞における大江健三郎の選評を引用する。

「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向付けにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた」

 


これはだいぶん貶している。無益な試み、とまで言い切っている。この作風に、だいぶん激しく拒否感を示している、ということだろう。

 

当時から多分文壇の大御所で会ったであろう大江健三郎(村上氏はこの”文壇いうのがとにかく嫌で、その後アメリカで執筆されたようだ)がここまで拒否感を示しているのが興味深い。その後の村上氏の世界への広がりを見れば、大江氏の見る目がなかった、というよりは、それだけ大きな拒否感を感じさせるほどに作品に力があった、という風に見るべきかもしれない。

 

多分、ものすごく、新しかったのだ。

 

今読み返して、古い、という感じは皆無である。仮に、時代に合わせた、POPで一瞬の小説であれば、このような読後感はないだろう。だがどうやら大江氏にとっては、時代に残ってゆく小説とは感じられなかったようだ。

 

マンガを読まない、とおっしゃる村上氏だが、ガロでの佐々木マキ(こちらも神戸出身)が大好きで、著作に佐々木氏が絵を提供したことを大変喜ばれていることも、興味深かった。

 

(私も佐々木マキ氏は大好きですが、どちらかというと絵本作家で知っています。このあたりも世代差、ですね)

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)