本当のリアリティっていうのは、リアリティを超えたものなんです。事実をリアルに書いただけでは、本当のリアリティにはならない。
村上春樹 川上未映子 みみずくは黄昏に飛び立つ P.45 新潮文庫 2019
自己決定と自己規制、似た言葉であるが中身は違うだろう。まずはそれぞれの言葉をつぶやいてみた時の感触が違う。前者はいい感じで、後者は自己といいながら外部強制、昔の自分で将来の自分を縛ろう、というような趣きを含んでいる。
勉強や仕事でこれらのことが交互で起きる。「やるべきこと」と言った瞬間、自分で決めているはずなのに、気分が沈む。この部分を「軽やかに乗り越える」ことがあるいは必要なのかもしれない。
昨日はいわゆる名古屋地区の有名なコーヒーチェーンである「コメダ」に約時間滞在。客足は途切れない。家族連れ、待ち合わせ、老人が10分で入店退店、中国での買い食い事情を語り合う運転手稼業らしき二人連れ。中国へ出張しての運転手、というと、すぐには仕事内容が想像しにくい。海外ではやはり地元の運転手、あるいは慣れた運転手がベターであろうし。英国ではEU離脱で外国人運転手がビザ失効により不足、ガソリン不足に陥ったという。慌てて軍人に運転業務を習わせたとのこと。どの国でも、軍人はいいように使われるようだ。非常時、といえば、すべての業務が「軍務」となる。
コメダでは、川上未映子氏が村上春樹氏にインタビューした「みみずくは黄昏に飛びたつ」を読んでいた。というか、気になる箇所を書き写していた。
この「書き写し」というのは、読む、という作業とはまた少し違うようだ。まずは当然ながら言葉をより正確に把握できる。読むときに自らの癖に合わせて読んでいるときがあるのがわかる。そして時間がかかる分、意味が脳髄にしみこむこともある。あるいは、書き写しにいっぱいで逆に意味がはいってこないこともある。後者の場合は書いたものを読み返すこととなる。
読み返すときに、不思議なのは、自分の字であると他人の文章であっても、脳が「自分の記載」と認識するのだろうか、すこし読みやすく、よりこれも「脳髄しみこみ」が進む感じがある(自分比)。これはけっこう楽しい体験である。
ということで、本をよみながら、気になったら書き写す、というスタイルを続けている。だが、このスタイルの欠点は、読み進める速度が遅いことだ。
これは良しあしのバーターではある。だが量をよむだけが良い読書とも、限らないだろう。
(たくさん接すると、石の中の玉に、ぶち当たる可能性が上がる、という気もしますが・・・)