考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。
小林秀雄 考えるヒント2 文集ウェブ文庫 34%
物を身に感じる、というところが、難しいだろう。
だいたい、感じてはいない。つまり、考えていない、ということだ。
身に感じる、というところ、ただ知識として知る、現象を理解する、ということではない。考える、という行為は、結構簡単に「知る事」とごっちゃになるのだろう。
学ぶ、ということを学校で習うわけだが、これはだいたいが、「記憶する」「記憶した知識を脳髄から引っ張り出す」「脳髄にたくさん覚えさせて、うまく引っ張り出せる人が勝つ」という風に学ぶことになる。
これがあまりよくないのだろう。
そうして覚えた知識を、まずは「血肉化」させ、自らのものにしてからそれによって立って、自身の言葉としての意見を出してゆく。
そこで出てくる意見は、他と似ているのかどうか、ということとは本質的には関係がないだろう。もちろん同じようなものはふつうある。だが、「自分」という土壌は、この世界に唯一無二である。すばらしい土壌であるかどうかはともかく、すべての個は、独自なのである。
その独自の土壌から出てきたものは、基本的にはすべて独自のものだ。
そのことを、あまりに「記憶」に頑張って、「試験で再現」しようとしすぎると、面倒になってそれだけになってしまう。
記憶してもいい。再現しようとしてもいい。だが、「再現だけでいい」という思いがあると、ダメなのだ。
身に感じ、つまりは「我が身のものとして実感」すれば、見た目は再現のようでもそこには「自らを一度通った結果としてのもの」が出る。
それはもはや、「再現」ではないのだ。
同じようでも、まったく違うのだ。
良く、試験で「教科書・辞書」持ち込み可、といったものがある。これに対して、「無理やりにでも試験を合格させようとする」「回答者を基本的にアホと考えている」仕打ちである、と思ってきた。
いや、そういう試験は大好物であったのだが。
だが、それはあるいはもしかして、記憶に頼る部分を比較して評価する試験ではありませんよ、この試験は。
というメッセージであったのかもしれない。
試験を受けるような年齢を遠く過ぎて、今更その可能性に気づいて、それがどうした、ということなのだが、
まあ、気が付かないのよりは、いいのかもしれない。
(きちんと、考えたい、ですね)