「世の中には、面白い読み物と、それとは別の領域に属するものがある。」奥泉光さんがそのようなことを書いていたんですが、僕なりの解釈だと、ストーリーを楽しむものは『読み物』で、大江さんのような作品は『小説』なんですよね。
読売新聞 「本よみうり堂」 2月9日版 伊坂幸太郎














似たような話で思い出すのは、我が敬愛する荒俣宏さんが、“最近はフクションが読めなくなって、ノンフィクションばかり読むようになった”とどこかで書かれていたことが妙に記憶にのこったことだ。
私も自身の読書の中で、同じような感想を持ってきた。
けっして”読み物””フィクション”が劣っているわけではないのだが、なんとなくだがより”現実から排出されたもの、こと”を記されたものの重みを感じるようになったのかもしれない。
あるいは“インプットよりアウトプット”という意識があるからだろうか。
他人が作ったフィクションより、自身から生まれるフィクションがいい、という意識もどうやらあるようだ。
ノーストロップ・フライが、大いなる体系/聖書と文学(叢書ウニベルシタス 500)の序章で以下のように述べている。
人間は動物のように自然の中に直接、もしくは裸のまま生きているのではなく、神秘的宇宙、つまり生存上の関心から発展した前提や信念の集合体の中に生きているのである。これらのものをわれわれは無意識裡いだいているのである。
この伝でいくと、フクションやノンフィクションを読んでいきながら、人は自身の周りに不可視な”独自宇宙”を精神的に構築して、いわば本能的に自身の精神、あるいは”魂”を”厳格すぎるリアル”から守ろうとしているように感じる。
そういう精神の防御壁、の原料として、幼少期の私は漫画やファンタジーを採用し、ある程度の厚さを築けたように思う。そこにさらに加えて強化するために、今度は”リアル”から生まれた人々の魂の反響、みたいなものが、欲しくなっていったのではないだろうか。
それにより、より防御壁に血が通って、強くなるような気がする。
また、”防禦”よりしなやかな対応さえ、徐々にできるようになる気もする。
まあ、とにもかくにも、そういうことがプラトンのいう”魂の世話”につながっていくような気も、
しているのである。
(事実の重みに裏付けられたノンフィクション(詩、などもけっこうノンフクション(個人的な)な感触ありますね)は、時に芳醇な栄養価を感じますね)