今朝の体重67.8kg、体脂肪7.8%。
BMI22.2というのは最近見たことがない数値である。



だがまあ、ステーキあさくまのサラダバーで食べまくって、昨日は昨日とてサイゼリヤで爆食して、アイスやらプリンまんやらチョコレートどらやきやらを食べまくる日々の結果なのである。
仕方あるまい。また昼食プロテイン20g生活へと戻って、整えていきたいと思う。
体調管理の手段を得ることが、まずは”安心して突入できる老後”に必要だろうと思うのである。
そう思ったのは、読売新聞(そう、わたしはいまや少数派の新聞読者なのです)で料理研究家の村上祥子さん(83)の記事を読んだからである。
ジップロックに50gのタンパク質と100gの野菜を入れて凍らせて3食食べる、という整理に感心した。レンジを使うのも、手間を考えると悪くないかもしれない(どうしてもタンパク質をレンジで調理すると、AGEが発生、あるいは高まるイメージがあり、躊躇する面はあるが、そのあたりは手間とのバランスかもしれない)。
ユリイカ5月号は「自炊」特集だという。文学的テーマになるとは思うが、いままでのユリイカは個人か主義かが特集の対象だった気がする。
料理をするか、どのようにするか、ということには、結構人間性が影響するというか、垣間見える気がする。
そういう意味では特集テーマとしては面白い。図書館で探したがこの号は見つからなかった。。なんでかなあ、結構メジャーな本だと思うのだが。。
そもそも、なぜ消費が浪費と混同されてしまうのでしょうか。それは消費社会が必死に「消費こそが贅沢をもたらすことだ」と消費者を説得し続けているからでしょう。
國分功一郎 目的への抵抗 P.146
消費が贅沢かというと、確かにそうではないかもしれない。どちらかというと、強制的にやるべきことを行わされる感(それが生存の為の栄養補給であっても)がある。
浪費は基本、役に立たない、という感じとセットなので、つまりは義務感とも距離がある。興味からの強制感はあるが、興味はやはり生存などのマスト感とは違うだろう。
死なないために持つものは、興味、というぼんやりレベルではありえない。必要性であるだろう。
だが、たくさん消費すると、なんとなく贅沢感は感じる気がする。だが買い物は義務でやるものと、主に心の余裕(それは財布の余裕からもたらされることはよくあるかもしれない)があってやるものがある。同じものを複数買うにしても、欠品しているから買うものは消費、最安値品ではなく、好みの要素が最安値品より多くあって、価格も高いものを買うような場合は贅沢につながるかもしれない。
まずはそのあたりを、日々惰性で買っているものをより意識することから始めるのがいいかもしれない。
(私は最近洗濯に石鹸だけで柔軟剤を入れるのをやめました。このあたりからも”贅沢は敵だ!”という感じにすこしなってきているかもですね)

