今日の体重64.7kg、体脂肪5%。
昨日は豊川稲荷に何度目かの初詣を行った。
最近はできるだけいわゆる白米や玄米を食べるようにしている。
今朝は納豆が無かったので、玄米にぎりを温めて卵ごはんにした。
玄米と押し麦をあまり水につけずに電子レンジで20分ばかり炊くと、ぱらぱらになった。やはりもう少し時間をかけて水に浸したほうがいいようだが、仕方がない。
ぱさぱさだが、生卵とからんで、食べられる感じにはなった。朝米を食べるのはけっこう久し振りで、どちらかというと納豆(大豆)がメイン穀類であるのだが。
炭水化物をあまり食べないように、ということでやってきたのだが、いわゆる脳を働かせるにはブドウ糖が必要で、炭水化物をあまりたべないと脳が縮んで認知症リスクが高まると聞いて以来、ビビッて食べているというわけだ。
だが、繊維質の多い玄米+押し麦だと、いわゆる尾籠な話ながら”お便り”というか”お通じ”というかがきちんとあるようだ。個人的な感覚であるが、これはパスタをたくさん食べるよりもいい感じがしている。
とにかく今年は、節約を考えつつも、健康、風邪などへの抵抗力・免疫力を高めること、あるいは腸活、あるいは繊維質の摂取も考えてゆく、というのがテーマにしようと思っている。
あまり体重減を狙わない、といおうか。それには”玄米食”がキイワードのような気がしている。
価格にもよるが、はちみつで抗酸化を狙ったり、ナッツや高濃度チョコレートも復帰させたいと思っている。あとは納豆、キムチ、タクアンといった醗酵系。
肉の摂取は結構大変なので、その時のため卵は今までより多めに購入しようかと思っている。納豆もしかり。
あとは睡眠。昨日は東京に夜9時半に帰ってきて、10時前には就寝。妙に疲れていて6時まで寝ていた(4時半に目覚ましはかけたが)。ということで合計8時間寝ている。疲れているときは良く寝る、ということもテーマにしようかと思っている。
規則正しく眠れて、目覚ましなしで早起きできれば、それが4時でもいいと思ってはいるが、ある程度歩いて(1万歩以上)、疲れないと入眠がスムーズではない気がする。夏は大汗をかいて疲れるが、冬はそれほどでもないようだ。
さて、タイトル回収。1960年ごろ、ピックアップトラックの荷台に豪華な部屋を載せて、58歳のスタインベックはアメリカを横切って400キロを往復した。1960年と言われても、私は存在していないので、どのような世界であるかは想像するしかない。だが、ケネディとニクソンが政権を争い、多分月へのアプローチを検討していた時期、そういう意味では大きく世界が変化(膨張)していた時期のような気がする。
スタインベックについては、実は怒りの葡萄を読んでいないので、初めての読むことになる。62歳でノーベル賞、66歳で逝去、というその後の人生を知ってしまうと、この”58歳”という年齢がなんとも微妙に見えてくる。だがその時代、あきらかに”晩年”という気配があり、本人もそのつもりで”落ち着いてしまう前に世間を(最後に)見ておきたい”というような気持ちがきっかけであったように思う。
世間的には成功した作家、ピップアップトラックの上の部屋は豪華な造りであったようだが、老いたフランス産プードル(といっても私がイメージするプードル犬とは違ってもう少し大型のようだが)を友としての思索の旅、という風情である。ある意味アメリカ版トラックを使っての巡礼、という感触もなくはない。
P.215から引く。
伴侶を持つと、人は時間の中に縛られる。現在という時間にだ。しかし孤独の性質が身についてくると、過去も現在も未来も一緒になってくる。過去の記憶も現在の出来事も未来の予測も、みな等しく現在のこととなるのだ。
チャーリーとの旅 ジョン・スタインベック ポプラ社刊 竹内真訳
こうした気づきは、実際に伴侶を持っているスタインベックが、チャーリーというバディを伴いつつも、伴侶と離れて旅をしているが故に出てきたものだろう、と思うのだ。そしてスタインベック曰く、“妻は男を求めるタイプだ”とのことである。いまは”男性””女性”といった性役割に疑問符が付く時代で、基本そのことは正しいことだと思っているが、1960年にはそのような考えは全く一般的ではなかっただろう。自身のひげのことを”女性にはないものだからはやす”という意識あたりも、その時代当たり前であった感覚を感じるところだ。
これは多分未だ”男性がひげを生やす文化圏”では持たれている意識のような気がする。だがここ日本ではあまりない意識だろう。
個人的には、私はひげはあまり好きではない。なぜだろうか。まあ、似あっているなあ、と感じる日本人がいままでほぼいない(三船敏郎位??)というこもあろう。日本人の顔にあまりひげは似合わない気がするのだ。
まあ、この”似合わない”という感触は、さまざまな文化的な、あるいは個人的な気持ちが入り混じっての結果である、という気もしているわけだが。そのあたり、自分でももうすこし自身の気持ちを掘り下げたい、という気がしている。
(近い時代ながら、今では変わってきている感覚、というものをこの本で感じ取っている気がします)