夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

1月13日 ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン。醜いエルフと美しいオークの物語の可能性のことを考えたこと。

今朝の体重63.4kg、体脂肪6.8%。

 

引きつづき、少な目の体重ではある。夜は玄米+押し麦、という生活にしている。正月明けで冷蔵庫の食料は不足気味ではあるが、今朝は2合の玄米を炊いて、4個の握り飯を作った。

 

タンパク質は基本プロテイン。おとといは胸肉を煮て食べた。昨日は少し不足気味であった。本日は20gx3回の予定。昨日のおかずはイオンのキムチ。

今朝の体重63.4kg、体脂肪6.8%。

 

引きつづき、少な目の体重ではある。夜は玄米+押し麦、という生活にしている。正月明けで冷蔵庫の食料は不足気味ではあるが、今朝は2合の玄米を炊いて、4個の握り飯を作った。

 

タンパク質は基本プロテイン。おとといは胸肉を煮て食べた。昨日は少し不足気味であった。本日は20gx3回の予定。昨日のおかずはイオンのキムチ。



さて、トールキンである。ここでは前に書いたかもしれないが、左足の親指のイボを冷凍切除するために、中学1年生の時に神戸大学病院へ母親といったのである。それは痛かったのだが、そのことを明確に覚えているのは、待ち時間に評論社、瀬田貞二訳の「指輪物語」を読みだして、それ以来ずっと「指輪物語」は私の中で「第一等の物語」の座を占めているからだ。

 

まあ、幼少期の読書から引きづっているわけだが、そのほかは「ドリトル」「ナルニア」「ゲド」あたりなので、まあ、王道すぎるラインナップだ。すべてがある意味でファンタジー(ドリトルはファンタジーか?というむきもあるだろうが、私にとってはある意味一番身近なファンタジーである)ばかりなのは、幼少期の私の”世間一般へのびびり”や、虫や動物との交流が好きで、リアル人間は結構面倒だな、と思っていたことの裏返しでもあるだろう。

 

中学1年にとっては、なかなか大部な物語であったが、とにかくその世界に魅了され、引きずり込まれたことを今も思い出す。当然その時は物語の世間的評価(中一ですから)はよくわかっていなかったが、今となってはこの世界的な物語にその時期に、文章で接することができた幸せをあらためて感じるところだ。

 

私は文章より視覚優位な性格だ、とは思っている。だが、文章もけっこう好きな方である。つまりは文章を読んで、脳内で視覚が働き、脳内で独自の物語が繰り広げられるわけだ。

 

そのことを絵で表現することが現在取り組んでいる“版画”である。どちらかというと、文章で物語を紡ぐことは、いままであまりやって来たとはいえない。コロナ時代にすこしトライはしたのだが。

 

いずれにせよ、自身の脳内でホビットサウロンやゴクリ(敢えてこう呼ぶ)が独自の形態にて活動するわけである。小説が実写化されたときに、自身のイメージと違う、というのが普通結構なストレスになるわけだが(原作付きマンガでさえ、タッチや動き方が勿論違うわけで)、そのことが怖すぎていままできちんと映画を見てきていないのだ。

 

長すぎる前振りとなった。

アマプラで”力の指輪”シーズン1全8話を、昨日と一昨日で視聴したのだ。

 

1話約1時間、全部で8時間位だろうか。毎日12時半まで見ていたので、朝は早起きが出来なかった。まあ、正月はインフルでフルに臥せっていたので、遅れてきた正月、といったところだろうか。

 

物語の成り立ちと背景と原作の有無はよく把握せずに視聴開始した。トールキン神話はもちろんなんとなくその体系は頭に入っていたつもりではあるが、基本物語から得たイメージ(研究書等は読んでいない)が中心なので、1日目に半分を見てから、この物語の成り立ちをすこしWIKIPEDIA等で調べてみて、昨日後半に挑んだかたちである。

 

エルフ、という存在の創造が、トールキン世界の大きな魅力の一つであろう。英国での精神風土やトールキン自体の魂のありようは推測するしかないのだが、神があり、天使があり、妖精があり、オークや悪霊や堕天使がある、という仕組み、いわば現世の精神世界(たぶん西洋の戦前戦中の精神界)との合わせ鏡としてのトールキン神話世界であることに、やっと昨日気づいたのだ。

 

つまり、神と天使と、妖精にはおおきな存在としての隔たりがあるのだ、すくなくとも私の理解では。

 

そのことを理解して、エルフや人間やホビットの精神面を推測してゆくことが、物語理解にけっこう影響するのだ。

 

ここ日本では、昔と比べ、こうした精神世界への理解は世界の中でも独自といっていいだろう。基本無”一神教”なので、いわゆる一神教文化が基本的にもっているタブーと、無縁で物語を創造することができ、物語に接することができるのだ。

 

これが結構世界の中では異質であろうと思われるし、そのことが”NO LIMIT”な物語創出の原動力になる、という部分もあるだろう。

 

異なる文化にルーツを持つ神々同士がその力を競う、という構図、ある国ではそもそも考えることさえ不敬である、ということになるだろう。だが、ここ日本では、単なる”異種”あるいは”異人種バトルロイヤル”といったカジュアルさで実現可能なのである。

 

話がずれたが、トールキンのエルフ、という存在は、いわゆる”妖精”とは肌触りが違い、不死に近くて能力の高い人間に似たもの、という位置づけが秀逸である。どちらかというと、すこしその”人間臭さ”がギリシャ神とも近い気がする。非常に長命ながら傷で死ぬこともある。

 

またこの物語では、オークも”拉致されたエルフから生まれたもの”という位置づけで表されるし、醜いながらオークにも個人名があり、人生がある、という視点も供される。そうである。その通りである。仮に見た目でエルフが醜く、オークが美しければ、この物語はいったいどうなるのであろうか。

 

美を得ることは”たまたま”である。

 

この重い命題のこともまた、すこし考えることになった。

(いずれにしろビジュアルの質感は圧倒的でした。人類が映像をクリエイトする能力の増進のこともまた、思いました)

 

 

 

さて、トールキンである。ここでは前に書いたかもしれないが、左足の親指のイボを冷凍切除するために、中学1年生の時に神戸大学病院へ母親といったのである。それは痛かったのだが、そのことを明確に覚えているのは、待ち時間に評論社、瀬田貞二訳の「指輪物語」を読みだして、それ以来ずっと「指輪物語」は私の中で「第一等の物語」の座を占めているからだ。

 

まあ、幼少期の読書から引きづっているわけだが、そのほかは「ドリトル」「ナルニア」「ゲド」あたりなので、まあ、王道すぎるラインナップだ。すべてがある意味でファンタジー(ドリトルはファンタジーか?というむきもあるだろうが、私にとってはある意味一番身近なファンタジーである)ばかりなのは、幼少期の私の”世間一般へのびびり”や、虫や動物との交流が好きで、リアル人間は結構面倒だな、と思っていたことの裏返しでもあるだろう。

 

中学1年にとっては、なかなか大部な物語であったが、とにかくその世界に魅了され、引きずり込まれたことを今も思い出す。当然その時は物語の世間的評価(中一ですから)はよくわかっていなかったが、今となってはこの世界的な物語にその時期に、文章で接することができた幸せをあらためて感じるところだ。

 

私は文章より視覚優位な性格だ、とは思っている。だが、文章もけっこう好きな方である。つまりは文章を読んで、脳内で視覚が働き、脳内で独自の物語が繰り広げられるわけだ。

 

そのことを絵で表現することが現在取り組んでいる“版画”である。どちらかというと、文章で物語を紡ぐことは、いままであまりやって来たとはいえない。コロナ時代にすこしトライはしたのだが。

 

いずれにせよ、自身の脳内でホビットサウロンやゴクリ(敢えてこう呼ぶ)が独自の形態にて活動するわけである。小説が実写化されたときに、自身のイメージと違う、というのが普通結構なストレスになるわけだが(原作付きマンガでさえ、タッチや動き方が勿論違うわけで)、そのことが怖すぎていままできちんと映画を見てきていないのだ。

 

長すぎる前振りとなった。

アマプラで”力の指輪”シーズン1全8話を、昨日と一昨日で視聴したのだ。

 

1話約1時間、全部で8時間位だろうか。毎日12時半まで見ていたので、朝は早起きが出来なかった。まあ、正月はインフルでフルに臥せっていたので、遅れてきた正月、といったところだろうか。

 

物語の成り立ちと背景と原作の有無はよく把握せずに視聴開始した。トールキン神話はもちろんなんとなくその体系は頭に入っていたつもりではあるが、基本物語から得たイメージ(研究書等は読んでいない)が中心なので、1日目に半分を見てから、この物語の成り立ちをすこしWIKIPEDIA等で調べてみて、昨日後半に挑んだかたちである。

 

エルフ、という存在の創造が、トールキン世界の大きな魅力の一つであろう。英国での精神風土やトールキン自体の魂のありようは推測するしかないのだが、神があり、天使があり、妖精があり、オークや悪霊や堕天使がある、という仕組み、いわば現世の精神世界(たぶん西洋の戦前戦中の精神界)との合わせ鏡としてのトールキン神話世界であることに、やっと昨日気づいたのだ。

 

つまり、神と天使と、妖精にはおおきな存在としての隔たりがあるのだ、すくなくとも私の理解では。

 

そのことを理解して、エルフや人間やホビットの精神面を推測してゆくことが、物語理解にけっこう影響するのだ。

 

ここ日本では、昔と比べ、こうした精神世界への理解は世界の中でも独自といっていいだろう。基本無”一神教”なので、いわゆる一神教文化が基本的にもっているタブーと、無縁で物語を創造することができ、物語に接することができるのだ。

 

これが結構世界の中では異質であろうと思われるし、そのことが”NO LIMIT”な物語創出の原動力になる、という部分もあるだろう。

 

異なる文化にルーツを持つ神々同士がその力を競う、という構図、ある国ではそもそも考えることさえ不敬である、ということになるだろう。だが、ここ日本では、単なる”異種”あるいは”異人種バトルロイヤル”といったカジュアルさで実現可能なのである。

 

話がずれたが、トールキンのエルフ、という存在は、いわゆる”妖精”とは肌触りが違い、不死に近くて能力の高い人間に似たもの、という位置づけが秀逸である。どちらかというと、すこしその”人間臭さ”がギリシャ神とも近い気がする。非常に長命ながら傷で死ぬこともある。

 

またこの物語では、オークも”拉致されたエルフから生まれたもの”という位置づけで表されるし、醜いながらオークにも個人名があり、人生がある、という視点も供される。そうである。その通りである。仮に見た目でエルフが醜く、オークが美しければ、この物語はいったいどうなるのであろうか。

 

美を得ることは”たまたま”である。

 

この重い命題のこともまた、すこし考えることになった。

(いずれにしろビジュアルの質感は圧倒的でした。人類が映像をクリエイトする能力の増進のこともまた、思いました)