夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

サイゼリアと村上春樹の「地下2階」。

今朝はタニタさんサービスデイ。朝食前体重66.1kg、体脂肪5%と出た。多分実際は10%というところだろうとは思うのだが。

朝食前66キロというのはまだ少し多い。65キロにしたいところだ。だが昼食用に炭酸水に加えてIN BAR タンパク質20gバニラホワイト味を買ってしまった。こちら甘味料はスクラロースなので、あまりよくはないのだろうが。

スクラロース: SUCRALOSE

ショ糖(砂糖)の600倍の甘さを持つ人工甘味料。消化管で消化・吸収されず、そのままの形で便中に排泄されるためエネルギー(カロリー)はゼロ。

どうしてもこうした加工食品にがある程度の人工甘味料が入ってくる。今は極力甘いものを(果物以外は)食べていないので、まあ、ある程度の量は許容範囲とするかなあ。。

さて、昨日サイゼリヤへ行った。私が良くいくチェーン店は、1にサイゼリヤ、2にスタバ、3にミスド、というところだ。

サイゼリヤでは従来は200円ワインデカンタとチキンが定番であったが、一日20gのアルコールとなると250mlデカンタではたぶん2.5倍となるので、すこし絞って、ワイングラス2杯とした。

これでたぶん200mlなので、雀の涙の差である。そして価格はどちらも200円。だが白と赤を飲むことで、味の違いも楽しめる。これでも一日の許容量の倍ではあるのだが。

そして、折角なのでいろいろと別のメニューを頼もう、と思っている。昨日は「煉獄のたまご」と「フリウリ風フリコ」という初メニューにチャレンジした。

後段の「フリウリ」、地理的知識が皆無なので初めて聞いたが、調べてみるとイタリアの州の名前の一部でもともとは「ユリウス・カエサルが築いた都市Forum Iulii(「ユリウスのフォルム(広場)」を意味する」(By WIKIPEDIA)ということである。「フリコ」というのもなんのこっちゃだが、これは「フリコ(フリウリ語:Fricò)とは、イタリア北東部のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県付近で発祥した、フリウーリ地方を代表する料理の1つである。」(By WIKIPEDIA、too(笑))ということだ。フリウリ語、というのがあるんですね。

ということで、一つのメニューからいろいろとイタリア豆知識も学んでしまった。

煉獄のたまご、は2021年6月30日からグランドメニューに加わったという新メニューで、鬼滅を想起させるネーミングも面白く、トライしてみた。煮たったトマトソースが煉獄を連想させるが故の名称ということだが、トマトと卵、というのが健康にもよさそうである(いつもそればかり(笑))。

辛味とパルチザンチーズにオリーブオイルもかけてみて食べたが、なかなか良かった。卵は2つ入りのようなので、追加で半熟卵を足せば卵3個となり、タンパク質も一つ7.5gx3=22.5g、となかなかいい値となる(今回はやりませんでしたが)

さてさて、村上春樹の短編集、「女のいない男たち」を読了した。

(前略)他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」。                            
 高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。
村上春樹短編集「女のいない男たち」 ドライブ・マイ・カー より

前に村上氏が、自身の小説は自身の心の地下一階のそのまた下のところから生まれる、とおっしゃっていたこと、そしてそうした物語であるが故に、我々はなんとも引き付けられるのではないか、と書いた。

そしてこの引用部、マトリューシカ人形ではないが、登場人物である「高槻」にも同様のことが起き、高槻が自身の魂の深みから、不意に言葉を紡ぎだした、「紡ぎだしてしまった」瞬間のことが書かれていると思った。

私が村上氏の文章を読んで感じる「背徳感」は、たぶんその「魂の裏から立ち上っている感」のある物語であるからだと思っている。

そこは作者であってもあまりというかほとんどコントロールできないし、剥き出しであり、接すると「痛みを感じる」部分でもある。

痛みを感じるものの、それが「剥き出しの真実、あるいは生きることそのもの」であるが故の痛みであるなあ、と思うので、なんとも目が離せないのだ。

ほかの皆さんはどうだろうか。

 

多分こうした「痛み」は人それぞれの尺度で、個人的に、感じるのだろう。

それこそが「村上春樹を読む」ことの喜びと苦しみ、なのだ。

 

村上春樹の描く女性像が女性をもの的に見ている、という批判がある。これは多分的を射ている。そういう、面はたぶんある。

それは主人公の、あるいは話者の、現状の意識にそった反応や感想である。その批判は、そうした見方についてのもので、つまりは登場人物に対する批判、となるだろう。

そういうものを読んで、嫌だ、と感じる感覚もありうる。

私は多分、その部分を「嫌」というよりは「痛み」であるように感じているようなのだが。

 

人間は人間的(動物的、というものとは乖離した意味で)であると同時に、動物であり、進化の途上に当然すべての人間がいるわけであるから、種の保存というDNAの命令にさらされている。時にその命令は「善悪」や「好悪」でいけば「悪」サイドとして感じられることもあるように思う。

その部分が、時には「地下2階」から避けにくいものとして漂ってくることもあるのかもしれない。

そんなことを、村上春樹の描く女性像への批判をみて、感じた。ものとみることは美しくない。

剥き出しだ。

悪だ。

 

だが時にそうしているときも、自身でもあるのだ。

その時自分自身の、醜さをいやらしさを、避けようもなく、感じている。

 

(やはり世界的ベストセラーであっても、本と接するときは著者と1対1の関係になります。それが読書の、魅力ですね。あ、それと思いついたのは、サイゼリアで今私的最強ヘルシーメニューは、くたくたブロッコリー、煉獄卵、温泉卵トッピング、赤ワイングラス1杯、でしょうか。野菜、タンパク質、ポリフェノール摂取、ということで)