夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

電車の中。

うずくまる、という行為がある。

しゃがむ、というのは関西系の言葉かもしれない。蹲る、とはたぶん関西ではあまり言わない。

ヤンキー座り、うんこ座りという言い方もある。

言葉でのスノビズムを嫌う、露悪的要素、”カッコつけない”という精神文化が関西にはある。標準語ではそう感じない、というより自然とそういうオフィシャルであっても恥ずかしくない性格、無味無臭の部分がある。

そこを関西人は嫌うことになるのだが。

鼻につく、という、言葉と同時に鼻に来ているカンジ。

それを廃して露悪的にいうのが”うんこ座り”。

なにもそこまであからさまに、という向きもあろう、そんな向きもあるから余計に少しむきになって。

”ウンコ”をしているサマを人に”みせつける”。これは明らかな示威行為である。高校生がこれをしているのを見せつけられて、自らに”若さと強さ”で挑んできている、と感じるから、人は駅でのこの行為を嫌うのである。

嫌うから余計にやる。

欧米人はこの”蹲る”という行為を嫌うという。これはアジア人特有の行為で、”屈伏しているような形を見せながら、なおかついつでも立ち上がる不敵さを持っている”(ちくま 1998.11号NO.332、P6 富岡多惠子、佐々木幹朗対談より、多田道太郎「しぐさの日本文化」から佐々木氏の引用)。

アジア人と欧米人、という構図は、勤め人に代表される大人と、ヤンキーという構図に類似するが、しかし最近は”自分は勤め人に代表される大人ではない、からヤンキー座りに違和感はなく、むしろ自分もやりまっせ”という精神構造で、実はヤンキー魂に対抗しよう、という若々しい反抗のしかたもあるような気がして、それはそれで面白いような気がしている。

それは昔、”おとなげない”といわれたものかも知れない、がいわゆる地殻変動的にそのような反応が実は当たり前になってきており、それがオタク、アニメ、ファンタジーを奉る公の気持ちに繋がっており、これが”大人になれない日本文化”=COOL JAPANである(なれない、の意味は、CANNOTではなくWILL NOTで)。

抵抗するものとして、そうした”上品さ=大人の押し売り”が上の世代からあれば、それへの対抗は力が入るが、それがないのであれば自らは静かになってゆくしかない。それが今言うところの”草食”という語の意味ではないかと思っている。

抵抗先がない、あるいは抵抗されないようにプログラムされているが故の、抵抗しないことでの抵抗、である。ややこしいが。