夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

電車の中。

電車に乗る人生だ。

中学・高校の時は、一日に4時間乗っていた。おかげで揺れても字を追う能力が高まったかも。

あまり嬉しくないようだが。

最近でいけば、スマホである。かく言う僕もそうである。見まわしてみると新聞派は本当にすくなくなったようだ。先日久しぶりにスポーツ新聞を読んでいる人をみかけた。懐かしい、と端的に感じた。

そういえば池田晶子さんもスポーツ新聞に寄稿されたことがあったようだ。どれどれ、どのような新聞なのか。それはたぶん本当にご存じなかったのであろう。見てみて困惑、でもいいか。

そんな気風のよさがまた池田さんの魅力である。清濁併せのんでの鏡餅。たしかそんな風におっしゃっていたような。


ちょっと前(とはもう言わないのか?)は携帯、いわゆるガラケー、というやつだった。一心不乱に皆さんメールを打っていた。

いまは全く見なくなった。どこにいったのか、あの携帯空間は。

さて、電車で気になるといえば、化粧や座り。いや、地面に座るのは僕もやる。とっても疲れているのに新幹線で5時間、イスなし。そうなればもうすぐにベッタリだ。一応新聞紙程度は申し訳?に置くかもしれないが。

つまり人にはそれぞれ事情がある。昨日寝ていなければ、座るしかない。僕の感覚はそうである。

だが勝手なもので、座りや化粧をしている人をみると、なんとはなしに確かに不快な感じはする。これはいったいなぜなのだろうか。

皆さんもなんとなく同じ感覚のようだ。いや、ムスメは電車で化粧するようになってほしくはない。皆さんのおっしゃりようはそのような感じだ。僕は息子持ちであるので、想像するだけなのだが。

相手からのコミュニケーション上でのプレゼントがない。つまり端的に自分が軽んじられている、と感じるせいではないだろうか。

人は人とのコミュニケーションで、自分をプレゼントする。気持ちのプレゼントといってもいい。つまり”気をつかってあげる”。言葉のトーンを上げる、目を見る、微笑む。
そんな感じで要するに、相手に自分の気持ちを”あげる”。

人と人が近くにいる空間では、知らず自然にそのように振る舞う習慣がつくのではないだろうか。電車の中でも一応ある。少な目ではあろうが、ぶつかったら、”すみません”、降りる人には”どいてあげる”。

要するに”人のためになんらかの動きが自分に発生する”。

ようは、それが、社会、というもののすべてかもしれない。


化粧は、それがたぶんない。あなたの時間を、あなたの気分を保持するような気づかいを私はしませんよ、というメッセージが強力に、否応なく、伝わる行為なのである。

端的に、”あなたのことは眼中にありません”。

そういうメッセージに”見えてしまう”。

本人はほとんどそのような気持ちはないであろう。ああ、寝坊した。化粧は車中でやるしかない。

早起きして電車ではやらない、という気持ちが見えないことで、人は、僕は、”ああ、このひとは僕が眼中にない”と感じるのである。

そもそも眼中にあるわけがないのは、頭ではわかっていても、でも。

電車の中、という空間の位置づけが、大きく変遷しているということなのだろう。

それは自分が社会の中で、無視される存在である、あるいは、されうる存在である、ということを、体感させられ、押しつけられる行為といってもいいかもしれない。そもそも”行きたくもない仕事に、乗りたくもない満員電車の乗らされて”。”勘弁してくれよ”。そんなところではないだろうか。

要するに”自分のこと”。”自分が”、いやなのだ。


金輪際、化粧している人のためではない。全然ない。

まあ、そういう意味ではどっちもどっちなのかもしれない。


一方、新聞投書欄などでは、”マナー”や”躾”という文脈でお怒りになる皆さんがいる。それを聞くとき僕はすこし違和感を感じる。

”いや、そうではなくて、”自分が”、不快なのですよね。”自分に不快なものを見せるな”、とそういいたのですよね。

そういいたくなる。正直ではないな。なにかに頼って、対象にプレッシャーをかけたいのだな。

そう感じる。

ストレートにこういうべきではないか。

”自分は、自分の個人的感情として、それを見せられるのがいやだ。”

あなたのため、という言い方は欺瞞が、たぶんある。自分が、不快だ。

池田さんが国家や社会や政治にピンとこられなかったのは、こんなところもあるのではないだろうか。

自分には社会はなくて、社会性はある、とおっしゃっていたような。

売春がなぜわるい、ということに対し、他のだれにも悪くはないが、悪いとわからないことがあなた自身に悪い。あなたの魂にとって、わるい。

たぶん、結局は本人の認識に対峙するしかない、と思う。

化粧も、座りも、つまりは”その本人次第”。そういうものだ、と思うしかないだろう、というのが、取り敢えずの今回の僕の結論のようである。