夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

森茉莉、あるいは牟礼魔利(むれマリア)。

”ゴオルデン・ウィークには黒部へバスで行った。”

渋滞の予想される車中へ持参する本を選択するのは、心楽しい作業であり、これは海外出張の機中で読む本選びと基本的には同一のはずであるが、やはり車中と機中は環境が若干違うなあ、ということを心の底ではそこはかとなく感じながらの選択にはなる。

持って行った本をがつがつと平らげるのも一興ではあるのだが、最近はいわゆるエッセイ、身辺雑記的なもの、ただその底に深淵を潜ませるようなもの、というような選択を基本的には無意識にしているようだ。

貧乏サヴァラン。森茉莉の食をキイ・ワードにしたちくま文庫オリジナル。編者は早川暢子。

ブリア・サヴァランは常識なのかもしれないが、原題を”味覚の生理学、或いは、超越的ガストロノミーをめぐる瞑想録 文科学の会員である一教授によりパリの食通たちに捧げられる理論的、歴史的、時事的著述”とする”美味礼賛”の作者であり、この本は”食事を学問として扱い、その楽しみについて述べられている。”
(以上WIKIPEDIAより。)

寡聞にして今回知った。

この本に入っている細切れエッセイを読んで、まさに字の軽食のような感じで全部は読まず、頭のなかでぼんやりと転がした。

文章を熟成させる、寝かせる感じで、最近は情報量を少なく、それを深く、といった愉しみ方が性に合ってきたのは、これも年齢のなせる技か。

文章もこちらの読む状態に大きく左右される。読むにはエネルギーが必要だ。同じ文章でも読む時間帯、状態によって殆ど頭に入らないことがあるのは唖然とするばかりだ。そういう意味では2読、3読というのは必要であろう。覚えていなくとも前に読んだ状態を想起して、内容に戻って来易い。

読んで、KEY WORDSを何点か。

庶民、明朗、贅沢。

2つ目までは茉莉兵衛が嫌悪するもの。そして3つ目が舌なめずりするものである。

突出した特別な人格の傍に居ることは、自らの変容も容易に引き起こされてしまう。森林太郎という傑出した才能に生まれたときから接すると、そしてその耽溺たる偏愛を心で感じて育つと、こうなるのは当たり前だ、という当たり前さその通りの人が森茉莉というひとだ。

すこし痛々しい感じもするが、本人は一方幸せだと感じていることも確信できる。ただ2度の離婚を経ており、やはり森レベルの人格が伴侶でないと、普通の主婦になることは出来なかったようだ。茉莉兵衛は書く、普通の女が理想の男性と出会うのは何億か分の一である、と。つまり殆ど不可能である、というのが茉莉兵衛の哀しい認識なのである。彼女は生まれたときからそのような男性に父と娘として出会った人なのである。

永井荷風、と印象がずいぶん重なる。一人で都会で生活感のある都会人、孤独で偏屈で、という部分が殆ど同じだと認識している。ただ性別が違うだけ。ただ、可能であれば両人と友達になりたい、と思うのは何故だろうか。彼らがある意味やむなくなした生活スタイルが、真の意味で自立しており、そして痛々しいからだろう。しかし痛々しいと感じる心にはなにかいやな優越感、しかしそれはすごく脆い、というものが潜んでいるのであろうたぶん。その部分も含めて、近しくお話したい。そんな思いで彼らの本に接するのは、

驚くほど芳醇な時間だったりする。

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