夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

無敵のソクラテス、購入。

池田晶子さんのソクラテスシリーズを1冊に纏めた”無敵のソクラテス”を購入した。例によってAMAZONへレビューを投稿したが、長すぎてか掲載されない場合があるため、恒例によって本ブログへも自身の覚えも兼ね掲載しておく。

タイトルは”死ぬのは誰だ(文体の所有は、覚悟の所有)”とした。1992年に遺言3部作として世に出た本シリーズの3番目の文章のタイトルが”死ぬのは誰だ”。本来終るはずであったソクラテスシリーズの最後の作のタイトルだけに、作者の思いが込められているように思う。以下レビューの再掲。

”池田さんのソクラテス3部作に”大人のための哲学案内”を追加。3部作は夫々文庫化されており、計6種のあとがきも纏めて読める。あとがきを読むと、本シリーズはソクラテスが毒杯を仰ぐ直前を書いた「遺言」3部作のみ(P.9-30)の予定であったことがわかる。そして実は"若書きとはいえいかにも拙いと”感じた池田さんは「遺言」3部作を大幅改稿したという。
池田さんが遺した最後の問い、といえば”さて、死んだのは誰なのか”。改稿された若書き版を見ると、ソクラテスの最後に立ち会った検視官は最後で叫ぶ。”今しがた死んだのは、いったい「誰」なんだ!「その人」は、いつ、どこで、「死んだ」んだ!”
メビウスの帯のように目くるめく問いと思索。クサンチッペであり、やはりソクラテスでもある池田さんが”問い”と化してここに居る。”

レビューに余りクドクド書くと掲載されないので、できるだけ抑えたつもりだが、これでも長いかもしれない。とはいえいかにも消化不良だ。自身が自分用に勝手に設けた広場(アゴラ)であるこの場所で、もう少し書いてみたい。

ソクラテス3部作が纏めて刊行されると知ったので、”予習(?)”のつもりで単行本版”帰ってきたソクラテス”を読んだ。実は強度や読みやすさから、僕は文庫本版は持っておらず、単行本版を持っているのである。本文の最後には、池田版ソクラテスが世に出るきっかけとなった”遺言”3部作がある。レビューに書いた最後の検視官の叫び”今しがた死んだのは、いったい「誰」なんだ!”を見るに付け、池田さんの最後の問いとの関連を思わないわけにはいかなかった。ああ、ここで池田さんはすでにこの問いを。

で、発表順に並び替えられ、巻頭を飾った遺言3部作を本書(無敵のソクラテス)で読むと、”あれ?”。

あの問いが無いではないか。いや、無いわけではなく、形が違うのであるがあのままではない。

文庫版あとがきを読んでわかった。池田さんは文庫本化に際し、若書きであるとして書き換えられたのか。”あのウイウイしさこそがイイ”という人もいると書かれているので、特に否定はされていないようだが、若書きであるが敢えて残す、ということが多い池田さんにしては珍しいこともあるものだ。そうか、単行本版の”遺言”は今は古本でしか読むことができないのか。

池田さんが最後に問うた"さて、死んだのは誰なのか”は、既にソクラテスを題材に”死”を考えた、そして特段シリーズ化の予定なく、”天空の彼方からやってきて地上に着陸”しようとした”イケダアキコ”が、一番伝えたいこととして文末に持ってきた問い”死ぬのは誰だ”として、あったのである。墓碑銘を自ら起草されたとき、文庫化に際し改稿されたこの叫びのことが、あるいはかすかに頭をかすめたのかも知れない。

ちいさな発見を喜んで報告しているのである。まあ、典型的なファン心理、”ヤーイ、みーつけた”という奴か。苦笑して寛恕を乞うのみである。

2月、また池田さんが亡くなられた月がやってきた。なくなられて丸3年が経とうとしている。”死んだあとでも本は出る”として数々の本を出しておられるNPO法人 わたくし、つまりNobody さんには頭が下がるばかりである。本当に感謝したい。

無敵のソクラテス

無敵のソクラテス

帰ってきたソクラテス

帰ってきたソクラテス

帰ってきたソクラテス (新潮文庫)

帰ってきたソクラテス (新潮文庫)

追伸:今見たら、本レビュー無事掲載されたようだ。