夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

3月23日 ちいさなフリクションに意識的になる。

今日の体重67.4kg、体脂肪7.8%。f:id:mamezouya:20260323055649j:image
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昨日は一瞬69キロ近くいったが、3日前の飲み会、昨日の家に籠っての外出最小(買い物のみ)、ということでだいぶ体が膨らんだのであろう。

 

昨日はチートデイということで、普段は封印しているパンを購入。

チートデイはグルテンフリー・フリー(要はグルテンOK)としているので、

まいばすけっとで30%オフとなっていたロールパン6個入り(100円弱?)を買って帰ったが、当然のように一瞬で胃袋にワープしていった。

 

この30%オフに弱くて、この前はフランスパン30%オフ2本買ったが、買ったことが忘れられずすぐにこれも胃袋にワープして行った(´;ω;`)

 

6個も入っているのに、これほど満腹感がないのは一体どういうことなのか。

これでは12個買ってきても、瞬殺必至である。

 

最近日々の生活のフリクション、ということを考える。

これは”ストレス”と従来自分の中で言っていたものだが、そもそも”ストレスがある””ストレスを感じる”と思うこと自体がストレスであることに気付いたので、言い方を変えることにしたのだ。

 

ドクサ、という概念がある。言葉自体に燻蒸した意味だと理解している。

つまりは”コトバ自体のもつ雰囲気に引っ張られる”ことである。

ストレス、もそういう類であろう。

こういう小さなフリクションに意識的になって、対応することを最近は意識している。

 

このフリクション、は普通生活していてほとんど気づかないことだ。

 

例えば”毎日の動きに意識的になること”。いままでは惰性で意識せず行っていたことに意識を載せる。

これは、”一歩一歩の歩みを意識する”という禅の心構えとも通じる気がしている。

 

自動的な動きとは、あと例えば、会社から帰って部屋にはいったら、”とにかく一刻でも早く着替えたい”という想いに(個人的に)なることだったりする。

特に夏などは、外から帰ると汗で服がベタベタだ。

 

だがこれを、すこし意識して、一呼吸置く。

すぐに脱ぎ始めないで、外出着のまますこし居る。

 

そうすると、”帰ったらすぐ着替えなければならない”というなぜか思い込んでいたフリクションから、すこし距離を置けるのだ。

で、”イライラせずに、ゆっくり”着替えることができる。

 

すこし話がずれるが、理由はわからないが嫌なこと、がある。

 

例えば制服。学生服やスーツ。”社会人らしい”落ち着いた服装の選定。

こういうものになぜかわからないが、ずっと反発を感じてきた。

 

これはなぜかな、と考えていたが、今考えているのは、

”人間は強制されるのが嫌だ”ということだ。

 

学生服は、強制だ。だれかの指示に従わねばならない境遇にいるから着るものだ。この場合は学校。

いまは服装も自由になったが、私の時代は、サラリーマンはスーツ着ろ、だった。ワイシャツは白にしろ、だった。

これらが嫌で、ぎりぎりの線を狙って逸脱しようとしてきた。

シャツはカラーシャツやストライプ。ネクタイは微妙にキャラクターが入ったやつ(まあ特定のキャラではなく、馬や象、の具象入り、みたいな)。

 

今の時代、スーツ着ろ、というプレッシャーはまだまだある。東京で電車に乗れば、まあスーツに白シャツ、というサラリーマンはまだまだ多い。

私は時計好きだが、昔流行ったドレスタイプの小径時計が今はほとんど顧みられない。

個人的にも、”サラリーマンは無難な時計つけとけや”という感じが嫌で嫌で、できるだけ逸脱方向でぎりぎりの時計を購入したものだ。

 

だが、考えてみると、強制されてそれらを”無批判で受け入れなければならない”というのが嫌すぎただけであって、そもそものスーツのかっちり感や、ドレスウォッチの上品なミニマル感は、それだけを見れば、そしてそれ本来の存在感を向き合えばとても魅力的なのだ。

そういう上品なものであるから選ばれて着ていた先達がいて、それをまねるひとがおおぜいでてきて、それがいつのまにか、”社会の暗黙ルール”になったわけだ。

要は、フォロワー、そういう姿を自ら選び取ったのではない層に、好むも好まないもなく社会圧として”制服として”強制されるもの。

 

マナー、というのもそうだろう。マナーとは、情報の少ないもの同士が、相手の本質を推測しやすくするための便利な小道具でもある。なので、”誰も見ていないところで、自ら選び取って行う上品な動き=マナー”であれば、それはそれで素晴らしいものなのだ。

 

天邪鬼な私は、だから”もうスーツ着んでええで”という空気が多くなると、ダニエル・クレイグにあこがれて、毎日スーツで汗だくになるようになった。

真夏にジャケットなので、汗だくなのだ。

強制されていないからこそ、むしろ面白い。汗かきすぎて、瘠せるまである。

 

最近では、小径の古いSEIKOドルチェ系列を、ヤフオクやメルカリでヘビー購入中である。いまもPCの前に直径想定32ミリの、レディース相当のドルチェを置いて仕事をしているが、改めてみてこのシンプルなノンデイト三針時計のデザインにはほれぼれする。

 

そう、つまり、いまは会社服選びの”社会圧=フリクション”が弱まったので、スーツやドレスウォッチ本来の良さに気付く余裕が、やっとすこし生まれたわけだ。

 

日々の生活は無数の判断の結果である。一歩踏み出すことも、無数の人体組織の選択が無意識下でも行われているのだ。

 

そこの一部に、意識をもっていき、選んで”良い方向”になると、とてもスッキりするのだ。

 

昨日は家をほとんど出ず、図書館で借りた村上春樹の文芸誌掲載の夏帆の話2話分を読んだ。

単行本前の最新作を読めるのですばらしい、という想いで借りたものだが、返却期限が来るのに、全然部屋では切り替えられずに、本が読めない。

とフリクションがめちゃくちゃ高まっていたようだ。

 

昨日は腹を括って、座って読んだ。無事読み切った。めちゃくちゃすっきりした。

家で本を読める環境設定を考えねば、というフリクションもあったようだ。

 

積ん読を立派な読書だ、題名に接するだけで読書になる、ということは思うわけだが、地面に積んであると題名も読めない。積ん読捗りすぎやろ、という意識が四六時中フリクションになっていたようだ。

 

昨日何とか本が読めたことで、その点が改善するかも、という想いもまた、フリクション減につながったようだ。

 

(あとは部屋で版画作業がなかなかできないのをどうするか、ですね。。宅トレも大きなテーマですが、”肩が凝ったらぶら下がり健康器で3回懸垂”という技を導入したら、肩の凝りが激減することに気付きました。動かないで不自然な姿勢を続けるから肩が凝るんですね。懸垂で背筋が総合的にぐにゃぐにゃ変化すること、体重がかかり結果的に肩が延ばされること、などがいい気がしますね。あとか血流かな。

一つ追記すると、文芸誌は当然村上春樹以外に多くの書き手が文章を寄せています。ですが村上春樹だけ読んで、朝図書館の返却POSTに投函。こそ流れも相当スッキリしましたね)