具体的にははっきり把握していないのだが、本、あるいは本屋にて本を売るという事業が困難に瀕しているということで、私が住む神保町当たりで公的な会議が開かれているようだ。


新聞の斜め読みのうろ覚えだが、林真理子氏が自身が本屋の娘であることをおっしゃった上で、本を読むことが高級な趣味になりつつある、という知見を述べていらしたことが記憶に残った。
その通りであろう。
昔、「円本」が出た時代は、本を買いたくても高くて買えなかった層に、なんとか買える価格で、憧れの「文化」である「本」が買えるということで爆発的人気が出たと聞く。
林氏の意見は卓見で、今後本屋はなくなり、本屋に行ってセレンディピティ的に本に出合うことは稀有で贅沢なことになるのだろう。
部数が売れない本は単価が高くなる。今も講談社文芸文庫は、私の感覚では420円くらいの文庫が1800円くらいする。多分早晩どんな文庫も2000円くらいが普通になるだろう。
単行本は5000円から8000円くらい。
そうなると本は贅沢品、各地区の中心街に1件だけあるリアル本屋で買うか、AMAZONで買うものとなる。
本はかさばる。空間を占有する贅沢なもの、との認識が強まる。
リアルな本など贅沢だ、電子書籍にしとけ、と言われる子供も多くなるだろう。
雑誌は消滅、本は高嶺の花に逆戻りする。
高級品なので、基本読み終わったら古書としてメルカリ・アマゾンマーケットプレイスなどで販売される。蔵書家は一部特殊な趣味の人びとにカテゴライスされるだろう。
雑誌の機能は80%はすでにWEBに代替されている気がする。
本は金をためて、気合を入れて買いそろえるものになるだろう。
画集でもいまはピンタレストやインスタで画像保管ができて、その機能も80%は代替されている。私も絵を描くときの資料はそうしている。
いままでのように、本を売ったり、買ったりする状態は続かない。本、とはメインが電子、たまにリアル、という存在になるのだろう。多分10年以内に。
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2022年12月5日、西荻窪の盛林書房に行き、片山廣子歌集「野に住みて」を購入したことを日記にて確認する。
この世界では一定の片山廣子ファンの方がいると思われる。同書店には10万円の「かなしき女王」もあったことが書かれている(自分の日記だが)。
函付きで、ひろ子名が本に記載?されていたようだ。それで10万円、希少性を考えるとありうる価格だが、なかなか手が出るものでもない。
「野に住みて」 は昭和29(1954年)年1月20日の印刷、300円である。
先日幸田文の「雀の手帖」のことを書いたが、それは1959年であったのでその5年前である。
その中に昭和16年から18年にかけて東北に住んだ長男達吉(1900-1945)に関する歌があり、引いておく。
東北に 子の済む家を 見にくれば
白き仔猫が 鈴ふりゐたり
片山廣子は1878年2月10日生まれ、1959年3月19日に79歳で亡くなっている。丁度「雀の手帖」連載の時だ。「野に住みて」、は73-4歳の時の出版である。
廣子が仮に昭和16年に長男のところに行ったとすれば、年齢は63歳くらいだろうか。
後年の幸田文が「雀の手帖」で55歳の自身を老女、と自称しているので、それより前の時代であれば、63歳はやはり世間では老女、とされる年齢であったろうか。
りん、とした印象のある廣子であるので、そういう見た目ではなかったろうし、その時は長男が健在であるわけで、推察するに老女、という印象ではなかった気がする。
句をみるに、なんというか、その後亡くなった長男の東北の住まいのなかに奇跡のように居た鈴をつけた白い仔猫が、瞬間に動きながらわが脳裏に現れる気持ちがする。
なんともいえない、哀惜の念を受けるのだ。
(句、というものの深みや悲しみを、感じますね。。。)