勝間和代さんのメルマガで、少し前にルッキズムのことがテーマであった。
そこで思ったのは、私の、他人の、ルッキズムを認めて、あがかない、ということである。
多分程度の差はあれ、全ての人にルッキズムはある。
自分でもどうしようもなくある。
好き嫌いや、アイドル趣味などはその顕著な顕れであろう。
自分にとって「美しい」と思う人のほうが、「美しい」と思わない人よりも価値がある。
そういう意識が「アイドル」や「推し」や「好きな顔」のベースにある。
そういう世界から「あきらめた」ひと、「あきらめたふりをしている人」はいるかもしれないが、「本当に離脱した人」はほぼいないだろう。今そういう気持に到達していたとしても、昔その思いに一瞬でも襲われていない人は多分いない。
だからそういうものだと割り切ろう。
その存在を認めよう。
ということを思った。
差別、というものにも「ルッキズム」の要素があるだろう。あとは「自己の存在を維持するにあたっての恐怖」といったものが大きな要素であると思う。
ルッキズムや差別に襲われたとき、そういうものを感じる自分がいない、と思って目を閉じるのではなく、いわばDNA的歴史的本能からまずはそう思うのだな、それはそういうものだ。
で、それを自身でどう処理するのか、
という観点で対応してゆくべきだろう。
社会生活とはイコールルッキズムへの対応を含むものだ。
そういう理解だ。
そのことにより、対象相手への不愉快な(自身にとっても、相手にとっても)反応や言動をしないようにしよう。
まずはそう思うことしか、できないような気がする。
自身でコントロールできない嫌悪感。例えば私はゲジゲジが結構きつい。
怪物好きを標榜しているが、リアルゲジゲジにはびびる。
まあ、毒がある、というDNA知識からのびびりかもしれない。
蛇を嫌う人もいるが、あれも毒蛇体験のDNA知識からかもしれない。
私はへびのあの顔が大好きで、というか蛇やトカゲや怪獣や人間の、尖った感じの顔だ好きなのだ。
逆に凹んだ感じは結構苦手だ。
そんな「趣味」も、煎じ詰めれば「ルッキズム」と同じなのだろうと、思っている。
(意識することしかない、とある程度割り切れたのは、勝間さんのお陰ですね)