夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

11月29日 ルッキズムを受け入れる。

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f:id:mamezouya:20231129052012j:image勝間和代さんのメルマガで、少し前にルッキズムのことがテーマであった。

 

そこで思ったのは、私の、他人の、ルッキズムを認めて、あがかない、ということである。

 

多分程度の差はあれ、全ての人にルッキズムはある。

自分でもどうしようもなくある。

 

好き嫌いや、アイドル趣味などはその顕著な顕れであろう。

 

自分にとって「美しい」と思う人のほうが、「美しい」と思わない人よりも価値がある。

 

そういう意識が「アイドル」や「推し」や「好きな顔」のベースにある。

 

そういう世界から「あきらめた」ひと、「あきらめたふりをしている人」はいるかもしれないが、「本当に離脱した人」はほぼいないだろう。今そういう気持に到達していたとしても、昔その思いに一瞬でも襲われていない人は多分いない。

 

だからそういうものだと割り切ろう。

 

その存在を認めよう。

 

 

ということを思った。

 

差別、というものにも「ルッキズム」の要素があるだろう。あとは「自己の存在を維持するにあたっての恐怖」といったものが大きな要素であると思う。

 

ルッキズムや差別に襲われたとき、そういうものを感じる自分がいない、と思って目を閉じるのではなく、いわばDNA的歴史的本能からまずはそう思うのだな、それはそういうものだ。

 

で、それを自身でどう処理するのか、

 

という観点で対応してゆくべきだろう。

 

 

社会生活とはイコールルッキズムへの対応を含むものだ。

 

そういう理解だ。

 

 

そのことにより、対象相手への不愉快な(自身にとっても、相手にとっても)反応や言動をしないようにしよう。

 

 

まずはそう思うことしか、できないような気がする。

 

 

 

自身でコントロールできない嫌悪感。例えば私はゲジゲジが結構きつい。

 

怪物好きを標榜しているが、リアルゲジゲジにはびびる。

 

 

まあ、毒がある、というDNA知識からのびびりかもしれない。

 

 

 

蛇を嫌う人もいるが、あれも毒蛇体験のDNA知識からかもしれない。

 

私はへびのあの顔が大好きで、というか蛇やトカゲや怪獣や人間の、尖った感じの顔だ好きなのだ。

 

逆に凹んだ感じは結構苦手だ。

 

そんな「趣味」も、煎じ詰めれば「ルッキズム」と同じなのだろうと、思っている。

 

 

(意識することしかない、とある程度割り切れたのは、勝間さんのお陰ですね)