夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

11月28日 肉やを応援する豚。ひろゆき氏の”1%の努力”を読んだこと。

今朝の体重64.5kg、体脂肪12%くらいであったか。

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昨日は日曜(これ書いているのは27日)、土曜は夜までひきこもっていたのだが、すこしは歩かないとと思い立ったのがもうPM8時半くらいであったか。

 

なにか予定を入れないと、1日の時間溶けはハンパない。あっというまに夜である。

 

だがまあ、会社帰りにいろいろ動く癖があるので、夜の歩きはむしろ普通。だいぶ冷え込んでいたが、マフラーに手袋、MA-1で出かけた。

 

まあ、特に予定なく歩いていたが、始めは上野公園まであるくかな、という気もちと、いやこの時間にちょっと遠いでしょ、という気もちがわが脳内で起こっていることを、

 

なんとなく第3者的に感じながら歩いた。

 

こういう”ちょっとした心のささやき”を無理に押し込めず、自由にたゆたわせて結果を見る、というのが、最近ちょっと面白いのだ。

 

わが心を、ちょっと離れて観察、という感じ。

 

で、歩いていて、そうだ、秋葉原駅前のブックオフに行こう、と思いつく。

 

で、”これはなかなかいい思い付きだぞ”と思った。

 

 

 

私は前の会社で、そう、ポケモンGOが出る前は、会社帰りにブックオフによく寄っていた。定期で途中下車で寄れるからだ。そして一度行くともう閉店まで居てしまっていた(11時)。

 

いや、別にどれだけ居よう、と思って入るわけではない。読みたい漫画をただ読んでいると、時間が溶けるだけなのだ。

 

だが、無駄な時間を過ごした、とは毛頭思わない。なぜか。漫画を読むことはどちらかというと自分のやるべき「修行」である、という感覚があるからだろう。本来やるべきこと。それは自分にとっての最高の表現を生涯の中で追求すること。

 

昨日ひろゆき氏の”1%の努力”という本を、図書館でだいぶ待って借りられた。ひろゆき氏のYOUTUBEはけっこう好きで、よく見ている。本はそこで話されていることがほとんどであったが、生き方の哲学のようなものはもちろん変わらない。むしろぶれていないが故に同じことが書かれるのだ。そういう意味では面白く読んだ。

 

この日記は土曜日にブックオフに行ったことを書きだしたのだが、日曜日はそう、朝起きて”これは朝からちゃんと活動せんと、また夜になってまうで”と思ったのだった。

 

起きてすぐ、そう思っていた。

 

これは寝ている間に、脳内でいろいろ整理されて、土日のうち日曜の活動はこうあるべき、という答えが眠っている間に得られた、ということだ。

 

まあ、真偽はともかく、個人の気持ちをどう持つかは自由、私はそう感じたわけだ。

 

で、寒いかもしれへんけど、着こんで日比谷図書館にいこか、と思ったのだ。

 

余談ながら私の思考はすべて関西弁、というか神戸方面方言でなされている。多分廻りで神戸の言葉を話す人が居ないので、最新の神戸弁ではないだろう。さらに母親は神戸ではなく大阪池田あたりの出なので、たぶん我が言葉はすこし大阪風味があるかもしれない。

 

話がずれるついでに言えば、私は長らく大阪と神戸の言葉はほぼ同じ(河内地方のぞく)と思っていたが、ある大阪の人に、無理して関西弁しゃべらんでいい、といわれたことがあって、その時には本当に怒髪天を突く、という表現が浮かんだくらい腹がたったことを今も思い出す。

 

先輩の社外の方だったが、アイデンティティを否定された気がして、”なんやコイツ”という気もちが充満したことを思い出す。社外の方でなければやばかったかもしれない。

 

それ以来、大阪の方としゃべるときは少し気になるようになった。こんなことを思い出してみると、結構自分は瞬間湯沸かし器的短気なのだな、と思うところである。

 

だいぶ話がとっちらかってきた。なんの話だったか。

 

そうそう、土曜日はPM8時半まで時間を溶かして、でも夜に秋葉原ブックオフに行けて、マンガの立ち読みは私の中ではPOSITIVEな修行、あるいは勉強行為である、というところだった。

 

そしてひろゆき氏の本を読んだところにとんだのだが、つまりひろゆき氏の本にいいことが書いてあったのだ。

 

それは、壷に石、砂利、砂、水を順番に入れる話で、それはともすると人生の時間につめこめばいろいろできる、と人は誤ってそのMAXIMというか箴言を誤解しがちであるが、実は自分の人生で重要なこと(石)ははじめに入れないともう入らない、ということを言っている、という話であった。

 

そう、自分の人生という限られた壷に、始めに入れるべき石をしっかり決めて入れないと、あとから砂利や砂や水が入ってしまうと2度ともう石は入らない、ということだ。

 

もちろん後で既に入った砂利や水を抜いて、石を入れたら、ということも考えられる。例えば会社員を早期リタイヤしてやりたいことをそこからやる、といったことになるだろうか。

 

だが、多分ちがうのだろう。勿論そうできる人はいるだろうが、たぶん全員ではない。やったとしてもその結果は違ってきがちであるのかもしれない。幸福な例外はここでもあるだろうが。

 

私にとって、マンガ家というプロの絵描きの成果を見ることは、絵やイラストを見続けることと同義なのだ。

 

まあ、ストーリーもあるので”ほぼ同義“位かもしれないが。

 

よき絵を描くためには、先人の成果を見てゆくのがいいと思っている。もちろん”パクリ”はダメだが、いい意味での”オマージュ”(この言葉は最近嫌な言い訳にされている気がするが)はいいのだ。そこを足掛かりに、自分の表現を混ぜてまぶせて、飛躍させる。

 

私の絵のスタイルはその方向だ。

 

ということで、我が石はそう、”人生で自分で納得のいく表現を追求し、見つけていく”ということだろう。

 

結論がないが、時間がなくなった。

今日はこの辺で。

 

(タイトル回収できてませんでした。私はTVCMで豚がソーセージのCMに使われているのを、なんとも言えない、無意識ながらのブラックユーモアと考えています。普通なら殺されて食べられる豚をCMでかわいく躍らせるのはなんとも残酷なような気がしますが。しかし、もう肉が殺された動物のものだ、というのは徹底的に社会的に意識されないように無菌化されていますからねー。それと近い無意識のやばさ。将来殺されてしまう事確定の肉やを応援する豚(私は豚が結構好きで、バカにする感覚は全くないですが。ドナドナですね)であるわれわれ、という問題提起がひろゆき氏の本でされていて、印象的だった、ということでタイトルとしました。

 

ああ、久々に字を書いた(打った)気がするなあ((´;ω;`)))