ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で教えてくれたのは、権力関係とは煎じ詰めれば「見るもの」と「見られるもの」の位階差のことだということであった。(中略)「パノプティコンの主要な効果は、拘禁されている者につねに『自分は見られている』という意識を抱き続かせることである。それによって権力は自動的に担保されるのである。(同書32%)
もはや毎日引用している内田樹先生の「期間限定の思想」から。
自分は見られている、というのは大きく社会で昨日は考えたが、会社や学校でも勿論ある。
「見る」ことが権力であることは、自身が「見る」ことを経験することで納得する。見られることは、仮に見ている人がどんなに「いい人」であっても嫌なものだ。見る、には批判の芽が、あるからだ。
無い「目」もあるかもしれない。だが受ける側はその区別はよくわからない。だいたい「いい」目であっても、実は嫌な目に容易に変わるかもしれないのだし。
なので、「見られる」ことこそが仕事として、ストレスとして、対価を生むのである。ストレスを受けることが、対価を得る、ということとほとんどの場合イコールである。
だが、本音を言えば、そうした「監視されているからイヤイヤやる」ような仕事はしたくはない。自らが自らを監視し、責任をもって価値を生み出したいものである。
雇われること、と仕事を自分で行う事、の近くて大きな差異がある。自分のできる範囲で行えれば、そこで得られるストレスは違った種類のものとなるだろう、本質的には。
(なかなか難しいですけれど。。資格、今なら保育士と薬剤師と医師免許位ですかね。。。昔は「頑固職人」があったのでしょうが。。あ、猫に監視されるのは至福ですね✨)