夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ビュッフェ悲話と細菌と。

ビュッフェというのは要注意だ。

よく出張に行っていたころは、空港のラウンジもビュッフェ方式であった。

ビュッフェとは言ってしまえば飲み放題、取り放題、ということだ。上品な皆さんはともかく、私は「タダだと食べまくる」タイプの人間だ。いわゆる「食べ放題で翌日後悔」というタイプ。

ホテルの朝食もそういうところがある。これまた厄介だ。

このコロナで出張も、空港も、ホテルもいかなくなったので、「ビュッフェ耐性」がなくなり、「心得」を忘れたようである。昨日、名古屋駅前にできたツタヤの書店併設のビュッフェカフェのようなところを試しに利用してみたのだ。

雰囲気は空港のラウンジに似ている。1時間1100円である。本は併設のツタヤで借りてきてもいい(自分で返却)し、エリア内にあるものを読んでもいい。食べ物も持ち込み自由、ということなので、長時間利用で勉強してもいいだろう。

乾き菓子系が多いが、これもラウンジ(ビジネス)に似ている。ここがやばかった。

摂り放題なので、ナッツ類と共にあったドライフルーツ・イチジクをめちゃくちゃ食べたのだ。

これはあまり空港ラウンジで見ないなあ、と思ったし、添加物の多いスナックとは(もちろん防腐剤的なものは添付されているだろうが)違っていいのではないか、と目がキラーン、となってしまったわけだ。

ホテルのビュッフェで山のように取ってくるのは、まずはブロッコリー。そしてスイカである。このあたりは基本どれだけ食べても体に悪くない、と思っている。ミニトマトなども10個くらいとる。あとはヨーグルト。味噌汁があったら、ワカメを死ぬほどぶち込んでいる。もうわかめ汁なのか、汁ワカメなのかは判然としない。そして納豆と魚。このあたりでもう相当満腹である。白米やパンは食べないようにしている。

そんな朝食を取ると、食べ過ぎた、という後悔はあまりなく、「今日は勝ったぞ(誰に?)」という謎の達成感もある。

そんな勝利を何度かするうちに、「あったらいくらたべてもいい食品」というカテゴリーが出来たのだ。具体的には野菜だろう。味をつけなければ、いくら食べてもいい。

昨日初遭遇した「ドライフルーツ・イチジク」。説明文に「スーパーフード」と書いてあるではないか。これだっ!!

とまずは5-6個取った。アイスコーヒーと共に食べると、なかなかいける。

これは食べれば食べるほどいいやつだ、と認識して、追加で更に10個弱。合計で15個くらいたべたろうか。

これがいけなかった。

 

急激な腹痛!!!

なんだかからだが熱いぞ!!

 

で、トイレに直行した。

で、トイレの中で検索してみると、「ドライフルーツ・イチジク」はスーパーフードだがカロリーも高く、繊維も水溶性、不水溶性(でしたっけ?)も豊富なので、食べ過ぎはいけない、せいぜい3-4個にしておけ、と書いてあるではないか!!!!!

 

やってしまった。15個は食べたぞ。

その後ふらふらしながら帰宅、またまたトイレへ直行。帰宅途中で耐えられずに公園で休憩。。。

いやあ、いい勉強をした。

どうも食べ放題やビュッフェだと、「考えた上で得をする(健康にもよい)ものをとことん食べる」という私のスタイルが、基本いいのだが、食べたことがない食品は、気を付けねばならないようだ。

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細菌とは、生物であるという。

単細胞ということだが、細胞があるという意味では人間との類似性がある。

大腸には10兆の細菌が住むという。そういう意味では一匹の細菌にとって、ある個人の大腸とは、人類にとっての地球のようなものだろう。あるいは宇宙のようなものか。

最近、腸活腸活といっているのだが、この腸活とは、いわばよい細菌を取り込んで、悪い細菌の活動を押さえよう、ということだ。

一匹の細菌にとってみれば、そうした行為を行う「宿主」たる人間の意思こそが、いわば「神の意思」というべきものであろう。

翻って、人間も同じではないだろうか。単細胞生物を人間は生物として同列に見る意識はないだろう。同じ哺乳類であっても、飼育し、食べる、鑑賞する、(結果的に)絶滅させる、という対応をしているのであれば、これはもちろん同列という意識はない。ペットであれば違うだろうが。

人にとっての単細胞生物の位置づけが、例えば逆であるのなら。より高度な生物にとって、少し複雑なだけの人間のことを、意識することはないだろう。

このあたりがSFの発想のひとつの類型であろう。マンガではガンツなどを思い出す。捕食者にとって、被捕食者の気もちを考えることは、ある意味辛いのだ。そして人間がえらいと思っているのとおなじように、一匹の細菌だって「思って」いるかもしれないではないか。彼らとしての流儀で。

だからどうだ、という話ではない。ましては「一人の」細菌を大事にしよう、という話ではない。だが動物に寄生する生物にとってと同じ意味で、細菌と人間は結果的に「共生」している。意識することはほぼないのだが。

悪玉菌であれば、減らそうと人間は思うだろう。環境を破壊する人間が、悪玉菌と同じ立場であるとみれば、「宿主」たる宇宙は、あるいは意識して滅ぼそうとするかもしれない。

(比較、という視点で考えてみました)