夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

無敵。

十字架か毒人参かは大した違いじゃない。いずれにせよ世間というのは、わからんものが怖いものなのだ。

 池田晶子 無敵のソクラテス(完全版) P.148


正しいものが正しすぎると、困る、あるいは邪魔である。

正しいものが正しいとわかるからこそ、恐れる。


正しいことは、よこにおいといて。



そうなってしまうのはどうしてなのか。


正しいもの、は心に余裕がないと受け入れられない。



というような気持ちがどこかにあるのはなぜなのか。



ソクラテスを恐れ殺した古代ギリシャの人々も、イエスを十字架にかけた人々も、怖さ、が殺したと言えそうだ。


正しいことを正しく言い続けた池田さんも、世間の無理解に絶望したこともあったであろう。

だが、公開議論はいつでも受けます、かかってきなさい、と池田さんがおっしゃったとき、実際にかかってきた人はいなかったと記憶する。


これも同じ。カゲでこそこそいう人は、向こうが正しく、自分が正しくない、という気持ちが多分どこかにある。

相手が池田さんであれば、それはいつも池田さんが正しい。


いや、池田さんが正しいのではない。正しいことが、正しいのだ。



そういう風に、池田さんは在った。正しいことが、言葉として、巫女たる池田さんの口から”宣”べられる。




からして、”公開討論”は”公開処刑=自分”となる。



自殺、かもしれない。

だから詫びを入れる。


詫びるのならわかってるんでしょ。ならはじめからいいなさんな!


やさしく池田さんはしかってくれる。

だけど、それで、真実にまがりなりにも触れえたじゃないの。


そうもおっしゃるような気がする。



やさしく、殺す。殺して、生かす。


たぶんそうだったはずだ。


わたしはそんなに暇じゃない。


そういいつつ、時間をとってくださったであろう。

あ、では、公開討論、いいかもしれない。



プロレスのギミックでは、そうして敵対関係作ってから、共闘、という流れもある。


あれ?なんでプロレス??


池田さん、すみません。。。




でも、どこかで、たぶん”わかっていて、そういうことにして、楽しむ”というプロレス文化には、”哲学”(いや、考えるほうの)と根底で似ている要素が、少しくあるような、気がしている。