十字架か毒人参かは大した違いじゃない。いずれにせよ世間というのは、わからんものが怖いものなのだ。
正しいものが正しすぎると、困る、あるいは邪魔である。
正しいものが正しいとわかるからこそ、恐れる。
正しいことは、よこにおいといて。
そうなってしまうのはどうしてなのか。
正しいもの、は心に余裕がないと受け入れられない。
というような気持ちがどこかにあるのはなぜなのか。
ソクラテスを恐れ殺した古代ギリシャの人々も、イエスを十字架にかけた人々も、怖さ、が殺したと言えそうだ。
正しいことを正しく言い続けた池田さんも、世間の無理解に絶望したこともあったであろう。
だが、公開議論はいつでも受けます、かかってきなさい、と池田さんがおっしゃったとき、実際にかかってきた人はいなかったと記憶する。
これも同じ。カゲでこそこそいう人は、向こうが正しく、自分が正しくない、という気持ちが多分どこかにある。
相手が池田さんであれば、それはいつも池田さんが正しい。
いや、池田さんが正しいのではない。正しいことが、正しいのだ。
そういう風に、池田さんは在った。正しいことが、言葉として、巫女たる池田さんの口から”宣”べられる。
自殺、かもしれない。
だから詫びを入れる。
詫びるのならわかってるんでしょ。ならはじめからいいなさんな!
やさしく池田さんはしかってくれる。
だけど、それで、真実にまがりなりにも触れえたじゃないの。
そうもおっしゃるような気がする。
やさしく、殺す。殺して、生かす。
たぶんそうだったはずだ。
わたしはそんなに暇じゃない。
そういいつつ、時間をとってくださったであろう。
あ、では、公開討論、いいかもしれない。
プロレスのギミックでは、そうして敵対関係作ってから、共闘、という流れもある。
あれ?なんでプロレス??
池田さん、すみません。。。
でも、どこかで、たぶん”わかっていて、そういうことにして、楽しむ”というプロレス文化には、”哲学”(いや、考えるほうの)と根底で似ている要素が、少しくあるような、気がしている。