ほとんどすべての人(含む自分)が、当たり前なのになぜかそう思っていないこと。
それは自分がこうして人として生きている、というか、”生きている”ことだ。
宗教的に言いたいのではない。人であることで輪廻をいいたいのでもない。
単純に、真実として、いまこうして地球という星が宇宙にあり、こうして生きている、ということ。これは本当にどのような確率で起こりうるのか。
そも”起こりうる”と考えるべきものなのかどうか。
いずれにしろ、”不思議”という言葉のみが当てはまる。
池田晶子さんの本を読むと、そのことが書いてある。というか、どの文章を見ても、そのことが基調の調べとしてあることを感じる。
振り返ってみると、自分の生を”不思議”と思わないことは、ある種の自己防衛、心の不安を抑える、”普通の人の感覚の安全回路”のようなものである気もする。
そのことは、たぶん、人が人として、たぶんすべての人が、ではないが、生きて、感じて、先賢の書を読み、徐々に感じ、考えだすことになっているのではないか。
哲学とは、”死”を考えることだという。
死を学ぶ、ことだともいう。
自己の生の不思議と不可逆性、二度とない、という希少性を感じて、初めてそのヤヌスの2面の一方の面貌である”死”を、おずおずと、おそるおそる、考えだすものではないのか。
だが、たまに、生まれてすぐ初期段階からそうした思いを持つ人たちがいるようだ。もちろん、池田さんもその一人であろう。
生まれながらにして、不可思議として生を捉え、考え、そして死をもまた考える。
そのような人たちがいる。それがいわゆる本当の意味での”哲学者”というものなのだろう。
名称はどうでもいい。時代によって、地域によって、その呼称は変わってくるのかもしれない。
ある時代では”預言者”だったかもしれない。たぶんあの、ギリシャ時代には”巫女”だろう。
”宗教者”であることもあろう。”生き神”といわれる人のなかにも混じっていそうだ。(偽物も多いかもしれないが)
”学者”のなかにも、真に驚きを眼にして学ぶものたちのなかには、そうした資質を持つ者が多いような気がする。そして哲学者。
考えざるをえないから、考える人たち。そうした人の残したものを足掛かりに、考えるもよし、徒手空拳で、なにもないところから、考えるもよし。
でも”考える”はいいですよ。
というか、それしか、することがない。
そんなことを、初期設定者である池田さんに教えられ、挑発されて、そして”それこそが本当に生きるということなのだろう”と感じ。
まあ、不可思議なこの生で、たまたま与えられた?この脳髄?魂?を使って考えられるのは、おのずと条件があろう。あえて、”限界”といって自己憐憫にひたるひまはないにしろ。
それを、見据えて、自分流で、考えてゆくしかない。たとえそれがどれほど外から見て、”残念”であるにしろ。
そう、思っている。