孤独が孤独であるのは、実は贅沢なことなのかもしれない。
こんな言葉を見つけた。
”一人ではないから素敵な孤独を楽しめる。”
先日の集落での殺人事件、既に世間では忘れ去られた観があるが、あそこでの悲劇は、集落での存在感、というものが自らの欲するものであり、それがどうしても得られない、となった途端に、孤独であることがわからない、真の孤独にあったことであろう。
人がいないときは、孤独が孤独であることもわからない。
いわば暗黒の陥穽、とでもいうべきものだろう。
しかし、若い頃集落を出て、40台後半で都会から集落に介護のために戻る。
都会に戻っても、家は維持できまい。生活できまい。そこにいるしかないだろう。
確かに、逃げ場はない。
意識は、既に都会のそれ。
自らが拠って立つ唯一の基盤を”田舎もの”と称し排斥した瞬間、孤独とはもはや認識できない真の孤独の陥穽に陥っていたのだろう。
これは、厳しい。
たぶん、疲弊した共同体に頭を下げて入れて貰うようなタイプではなかったろう。
これは本当に逃げ場がない。息苦しい。
sosとして役場に相談に行ったという。
sosだとは、わからなかっただろうなあ。役場の人も、本人も。
限界集落はそのあたりを受け入れ、共同体を保つ力が、ないだろう。
例えば、昔であれば、寺。行き方を迷えば相談。
そんな機能が多分あったのだろう。
今は・・無いのだろうなあ。たぶん、ネットはない。携帯もないだろう。本屋も、ないのだろう。
ああ、厳しいなあ。
どうしたら、いいか、思いつかない。思いつくのはそんなときに救命ブイのようにしがみつく、言葉。
僕は、池田晶子さんに出合って、池田さんの言葉に出合って、本をとおして池田さんの魂に触れて、本当によかった。
同じ立場なら、同じことをしない自信はない。
だけど、池田さんの本を一冊持っていれば、たぶん大丈夫だ。
よく、”無人島に持ってゆく1冊は”などという。
あの、集落は、たぶん彼にとって無人島以上に過酷であったのかもしれない。
なにしろ、人が近くにいるのである。なのに、絶対的に、絶望的に、孤独なのだ。
やっぱり、池田さんしかない。ないなあ・・・