夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

過去との出会い。

その時代にいなかったものにとっては、30年前も300年前も同じことだ。


どこかでそのような言葉を聞いた。

卑近な例では、流行歌。

聞いたことが無いもの(その時代に生まれていないもの)にとってはすごく古い歌も、ちょっと古い(こちらは”新しい歌”とカテゴラズしていたりする)も同じである。そのことを聞いた瞬間に”ジェネレーションギャップ”という文字が、空中に現出したかのような感じがする、ちょっと大げさであるが。


伊勢神宮にいった。これは、非常に稀有な例だ。


小林秀雄は、エジプトへ行って述べる。パルテノン神殿が、ギリシャが世界の精神世界の中心であったころ、既にスフィンクスは砂に埋もれ砂の中から頭を出していた、と。2500年前に取っての4000年前は、そのようなものだ。

伊勢神宮。正確ではないが1500年くらい前から存在したようだ。神話の時代から少し下った時代。

ピラミッドも、パルテノン神殿も、それを建立したものの子孫はあるにしてもその精神を、その哲学を、引き継いでいるとはいえない。しかしこの伊勢神宮。時代は下るとはいっても、そして戦乱期には一時途絶えた(定期的に実施することが)とはいっても、その精神は20年毎に引き継がれているといえよう。新しく建物を建て直す、という強制的な行為に依って。

平成25年は第62回目のそのような立替時期にあたる。

”ニンゲン”が作る建物は、ほとんど手が入っていない森に取り巻かれている。神道とは、もとはこうした社ではなく、歳経りた巨木や巨岩に神性を感じたものが始まりだという。

そういう意味で言えば、人になでられすべすべになった幹を持つ巨木に、人は判りやすい神を感じるものだろうか。

屋久島で感じた、時間を越えた生、というものに近いものを、この神宮(内宮)まわりの森から感じる。たたずまいも、森に囲まれた神域、という風情も、屋久島に近いものを感じる。森、と川。

木で家を作ることを選んだ日本に住む人々。石で家を作りそれを引き継ぐ、というのとは、違う。神社と教会の差、とも言えるかも知れない。

伊勢神宮についてのガイド本の中で、ビートたけしは、神宮をつくり人の行為を、意図せぬ蟻の行為に喩えた。慧眼であろう。蟻はその巣を上から見ている我々の眼を気にすることなくひたすらに巣を作る。神宮も鳥瞰すれば蟻の巣のようなものだ、と。

しかしナスカの巨大絵のように、もしかすると、蟻の精神のなかにそうした”神の目”(=宇宙からの目)を意識しながら作業する蟻も、あったかもしれない。意識しても、しかしその作業は外見上なにも変わらないのだが。

若い頃、は神社や寺にゆくのには若干の混乱があった。参拝者が拝む、という行為をしているのを、真似て行うのがいやだったのだ。強制力を感じるとき、人は反発を感じる。
”見仏記”を著したいとうせいこう氏とみうらじゅん氏についても、初めは”仏=ブツ”に拝んでいない。しかし、何百体も経巡るうちに自然と手を合わせるようになったという。

これを”既存の行為に迎合した”と見ることはできよう。彼等はそう、みられることを嫌悪して、手を合わせてこなかったのでもある。いわば、”他人が見る眼”を意識していた。

それが、無くなった。これが歳を、経る、ことの、効果であろう。

”既存の反発を感じる行為”を”そのまま鵜呑みにせず、近くにおいて感じて、そして受け入れる”行為。

これは、歳を経る、ことが必要である。

非常にいやらしい言い方かもしれないが、”そこにこだわらないことが信じられ無い”と思っている人間がいる。

他人からすると”鼻持ちならないスノッブ臭のする””キザな”人間、となろう。本人もその立居地は良くわかっている。

時間が経つ、生きることを何十年か行う。仏を、何百体も、見る。


そうすることで、”強制力を感じる世間の習い”に、歩み寄る、なにかが、生まれる。迎合か?そうであるかもしれない。

しかし、自らの中に”やっとうまれたこと”。


僕の例でいえば、前に書いたが、紅白。寅さん。大河ドラマ。朝ドラ。

やっぱり日本人はこれをみなきゃねえ、なんて言葉を聞くと、虫唾が走った。絶対みたるかい。

だから、そうしたプレッシャーのことばかりで、肝腎の中身を見ることがなかった。

今、そうしたプレッシャーは少なくなった。

こわごわと、見る。ほう。なかなか。


ようはカッコをつけたかっただけかもしれない。


すこし、そう思うようになった。


だから、神社で、”このあなたの(=誰?)エリアに来たからには、こちらのルールに従わせて頂きます”的な(まだ拘っているかな)気持ちでもって、手を叩き、賽銭を入れるようになった。

私のアイドル、である池田晶子さんが、友人と出雲大社へいかれたりしている、ということも少なからず影響している。霊感の高いご友人と参拝した池田さん、神威を高感度で受信するが如きご友人の立居振る舞い、参拝姿に感銘を受けている。(この部分も記憶で書いております。すみません)

いや、それにしても。

時間、かかったなあ。


次男と行ったのだが、自分はそういうのは入れない、といった。

うむうむ、そうなんだよな、入れたくないよな。


次男のこころの成長を感じつつ、おかげ横丁での食べまくりに出発したのであった。