夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

川崎。

中学生が殺される事件があった。

最近は目が疲れるので、あまりテレビを見ないし、状況は切れ切れで新聞などで見る限りであるが、妙に心に残っている。うまく整理できない。

理由のひとつは発生した場所。多摩川河川敷であるというではないか。実は今すんでいる場所は多摩川の土手が窓から見えるところである。朝の散歩で、橋を渡れば川崎市。たぶん数キロの近さであろう。

身近で、少年が殺されるような、集団がある。

この恐怖であろう。自分勝手な自己保存本能かもしれない。

多くの方が献花に訪れているという。鎮魂、つまり不慮に人生を絶たれた魂があると、人の魂はざわめく。自らの生活に密接した魂空間の最寄で、そうした事件が起こる。そうするとひとの心はざわめくのかもしれない。そのことを鎮めたくて、人は献花をするのではないか。

僕の心がざわめく理由、それは例の”酒鬼薔薇事件”を思い出したからかもしれない。少年が少年を殺す、という面での類似のほか、じつはあの事件も実家のすぐそばで発生した、という個人的な類似もある。

容易に殺す心象、というものがどういうものなのか。

今回は少ない情報での理解でいけば、集団のなかの18歳の少年が殺した可能性があるということだろう。集団をつくり、君臨する能力があるということだ。首をカッターで切れば相手が死ぬことは意識していたであろう。一足飛びに殺しにつながる心理、がうまく理解できない。何のために、自分にとって何を求めてのことなのだろうか。

実はこうした集団内部あるいは集団同士の殺人は、特に未成年の殺人は、けっこうあるのかもしれない。みせしめや”ひくにひけない”面子、という面もあるのかもしれない。

もうひとつ心に残る理由がある。実は僕は中学1年生のときに寮にいた。同室はほかに3人。中学3年生、高校1年生、高校2年生。高校1年と2年の人はおぼろげな記憶では1年ダブっていたので、12歳、15歳、17歳、18歳くらいであったろうか。

当然12歳の僕はパシリである。インスタントラーメンを買って来い、コーヒーをいれろ、などなど、日々がまさにパシリである。

中学生にとっての18歳は大人である。超えがたい、壁を感じるものだ。端的に、怖い。

実はそのストレスからか、病気になり1年で寮をでることになった。

そのときのストレスは、まさにこの殺された少年と同じであったろう。

僕は、寮を出る、という逃げ場があった。しかし、この少年には逃げ場はなかったのだろう。

そのときの僕が、この事件の殺された少年の立場にシンクロしている。僕が、殺されたのだ。


”子供にいきなり生命は尊いと教えるのは無理である。「なぜ」それが尊いのかを実感していないからである。尊いと実感できるのは、それが神秘なものだと気がつくということによってでしかない。これは自分の力を超えている、自分にはこれは理解できない。こう気づくことによって、人は初めてそれを敬うという気持ちになるのである。畏怖の感覚と神秘の感覚はきわめて近い。”

池田晶子 人間自身 考えることに終わりなく P.29


殺した少年に、生命の神秘、という気持ちはたぶん皆無であったろう。端的に恐ろしい。僕の中のあのころの少年が、つぶやいている。