夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

生命。

生命、といってみる。生きる、とちょっと違った感触である、語感である。

池田さんは生命に関する科学のアプローチに付いて、注目をされていた。臓器移植への違和感であれば、自分の臓器の移植先は自分で指名すべきである、という言い方で、クローン技術では、かのドリー(夢=DREAMから来たと思われるこの名付け!)や臓器移植の為の生体を培養(!)できる可能性とそのために作られた生体の魂について、また代理母や取り違えの問題にも言及されていた。

”人間が自分の子供を欲するのは、自然なのか執着なのか、これがどうしてもわからない。”

 池田晶子 人間自身 P.57 子供がほしい

最近の話題であれば、かのSTAP細胞(でしたっけ?)。自らの細胞で自らの問題ある臓器の代替物ができるのであれば、これはこれほど都合のいいことはない、と、こうなるのである。人の臓器を紆余曲折を経ていただくのではない。脳死は”人の死”という言い方の欺瞞性についても池田さんは述べられたが、そうした”面倒な”議論を経ずとも、自分の体由来の臓器が自由自在に手に入るのである。

それが本当だったのか、うそだったのか、そのあたりはいまひとつまじめにニュースをフォローしていなかったので、わからないのだが、昨日の新聞でまたひとつ”生命に関する問題含みなアプローチ”を見つけた。

着床前検査、というのか、受精卵が異常のないものかどうかを検査する、というやつである。

生まれる前にわが子に障害があるのかどうかがわかる。障害があった場合は、両親(予定者)はこう問われる。生むのか生まないのか。

こうした問題は、こうした技術がなければ顕在化しない。それはそうである、生まれるまでわが子の障害はわからないのであるから。この子の障害は、わが子の障害であったかもしれない。
”世間”はこうした共通意識でもって、障害をもった子供の世話、言ってしまえば費用の負担を公共で担ってきたのだと思う。

だが、こうした技術が前提となれば。生む前にわかっていて、それでも生んだ子供の世話(=費用)は敢えて生んだ個人負担とせよ。

すぐにはそうならないであろうが、その技術がごく当たり前になれば必ずそうなってしまう。50年後?100年後?かもしれないが。新聞でも論説委員の方がそう”憂えていた”。多くの議論が待たれる。

新聞を参照しながらではないので、表現はうろ覚えで申し訳がないのだが、読売新聞であった。そう、池田さんと新春会談をもったかの橋本五郎氏がいらっしゃる新聞社である。比較的、信頼に足る新聞社である、と感じている。

だが、このあたりが新聞の限界であろう。こうして踏み込んだ意見、個人の意見が感じられる意見は、実は新鮮であった。しかし”待たれる”。どういう意味だろうか。待たれる、待っているのはつまり自分を含んだ世間、といった意味だろうか。待つ、のであるから基本だれかがそれを始めてくれなければならない。もちろん想定するのは”医学界”。だが医者が、科学技術の進化に結局は歯止めをかけることがありうるのか。基本は”自分のめしのたね”。それは意識されていなくとも、どこか意識下には、必ずある。

自分の生業を、止められるわけがない。いわばお百姓に、畑を耕すな、というようなものだ。

であれば、自分を含んだわれわれが始めなければならない。待たれる、という言い方はそういうことをイメージさせつつ、でも実は、”自分は含まない”。そんなずるさが含まれる言葉だ。

主体性が、ない、あるいは、薄い。

わかる、新聞だから。本当は論説委員の方は、”議論を行わねばならない”と、こうおっしゃりたかったのであろう。だが、新聞だ。ただでさえ”上から目線だ”といって若い人は新聞を購読しない。”意見を言い過ぎると、買ってもらえない”。

苦しい、台所事情である。

えらそうなことを言ったが、基本こうした踏み込んだ意見を読んで、ぎりぎりいえるところまで言われたと思っている。よき、問題提起をいただいたと思っている。がんばられたなあ。たしか、女性の論説委員だったとおもう。


川崎の事件、引き続き続報をつい読んでしまうのだが、深い闇を見るような気持ちになった。ああ、これは逃げられない。

狭い社会の、典型的な独裁者の”部下抹殺”の構図ではないのか。北のかの国では、若き独裁者が先代皇帝の側近であり、身内でもある叔父(だったか)を”粛清”した。古来多くの帝国では、気に入らない部下を”粛清”する。敢えて讒言した部下を”宮刑”として生き恥をさらさせる。

身近なところでは独裁的な社長のいる中小企業。ブラックに人を使い捨てる。気に入らない部下は、首にする。

いや、従業員思いの社長さんがいる会社がほとんどだと思うのだが。個人企業であれば相性だってある。

なぜ少年は逃げなかったのか、という論調があるかもしれない。だが、少年の狭い日常生活、そこに住んでいれば会ってしまう。そのなかで知り合った、”いつもはやさしく、おごってくれる”兄貴分。”はじめは慕っていた”。

学校でも”あいつが切れるところは見たことがない”。だが”切れるとなにするかわからない”ところがあり、それは年下や弱いものに向かう。これは専制君主と臣下の関係のことだ

被害者の少年は18歳の少年を、避けていたのだろう。避けて別の少年と”遊びましょう”。しかし、ライン。横には、当の少年がいる。

そのあたり、”オレを避けて、こいつと遊びましょう?”

切れるところはそのあたりであったろうか。独裁者が臣下が自らをないがしろにしているのを知ってしまう。


このあたり、コミュニケーション手段としてのネットの怖さでもあるだろう。「捜査にあたりラインより情報提供を受け」ともあった。このやり取りがわかれば、容疑者(犯人)特定は、瞬間的に可能であろう。


いろいろなことが、ある。どう、考えればいいのであろうか。