夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

15年と20年。

白洲正子(1910-1998)を知ったのはいつだっただろうか。

みうらじゅん氏といとうせいこう氏の見仏記に凝って、見仏を繰り返していたころ、著作”十一面観音巡礼”を手に取ったのがはじめてであるように思う。その後青山二郎小林秀雄白洲次郎等との関連から一時のブームもあり発刊されたMOOK本でビジュアル面で接することも多くなった。

1冊の本から縁が深くなった作家である。

小林秀雄といえば、池田晶子さんのことも思い出す。

こうした繋がりを見ていると、”精神の中での交友”という語が浮かんでくる。池田さん的に言うと、"精神のバトン”か。

いきなり白洲正子のことを書き出したのは、昨日新潮社「白洲正子”ほんもの”の生活」をぱらぱらめくっていて、戦時中昭和20年に河上徹太郎夫妻の疎開を手伝った縁で、小林秀雄青山二郎を知り、10年弱年上のこれらの男同士の付き合いに”猛烈な嫉妬を覚え”どうしてもその中に割って入りたい、と思ったという項を読んだからだ。

昭和20年といえば1945年。正子35歳の頃、河上は44歳位か。読んでゆくと尾崎一夫(1899-1983)から川崎長太郎の出版記念会でこっぴどくやられた記述に出会う(蛇足だが、尾崎の遺稿は同月亡くなった小林秀雄の追悼記であったとのこと。同じ年に亡くなっている。文士が文士として交流していた時代を彷彿させる)。川崎は1954年にだるま食堂で出版記念会をしているようだから、そのころであろうか。尾崎に、一升瓶を提げて川崎をたずねたという正子の行動を”ベンツか何かに乗って、大えばりでやってきて”と衆人監視の中でこきおろされるのである。

非常に、厳しいコメントである。いたたまれないであろう。

しかし、20年以上あと(であれば、上記のだるま屋はちょっと時期が合わない気がするが)で、正子が「かくれ里」が1972年に読売文学賞を取ったとき、

”尾崎は弾丸のように走ってきて、「わたしはあんたを見損なっていた。何と謝っていいかわからん。ごめんよ。ほんとに申しわけないと思っている」と、きつく白洲の手を握ったという。”。
(P.88 前出「白洲正子”ほんもの”の生活」より 青柳恵介)

時に尾崎73才、白洲62歳。20年も前のことを、尾崎は覚えており、心から謝った。厳しくも素直な文士としての尾崎の素顔が見えるようだ。

このエピソードが気になったのは、その前日の読売新聞コラムで、15年越の心の交流を垣間見たからである。

放送作家高田文夫氏は、20代のころ永六輔の弟子になりたくて、20枚もの手紙を送ったという。永は30台半ば。永からは"弟子は取りません、友達にならなりましょう”という返事が届く。15年して対談後、永から高田に、”いまからでも遅くありません”との手紙が届く。

15年という年月を経て、永は高田の気持ちを忘れないでいた。

尾崎もまた、こころして正子をこきおろした。

人の思いを受け止めること。覚悟と責任を持って、敢えて人をこきおろすこと。

永や尾崎の、”忘れない心”、責任感のようなものの存在が、強く感じられるエピソードである。

15年と20年。長いようでいて、旺盛な精神の活動の中では決して長すぎない年月なのかもしれない。

十一面観音巡礼

十一面観音巡礼

白洲正子“ほんもの”の生活 (とんぼの本)

白洲正子“ほんもの”の生活 (とんぼの本)