夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

名編集者。

近頃電子書籍に移行すると目利きの編集者の目を経た文章が出版される、という従来の図が崩壊し、玉石混交となることが懸念されている。

そも編集者とはどういう職業であるのか。

直感的には、ほぼすべからく自ら文章を書きたい、という意志を持った人種であろうと思う。文章の生まれる場に立会い、あるいは原稿の依頼により生まれることを自ら促し、そしてあるいは自ら生む側へと転身してゆく。

村松友視氏などが浮かぶ。あるいは名作家の裏方に徹し、名作が生まれることを密かに作家と一身同体となり希う。

そのような職業であろうか。あるいは自らの嗅覚を恃むあまり、新人作家に事細かに指示するようなこともあるのだろう。

池田晶子さんの本の大多数を生み出すきっかけをつくられたトランスビューの中嶋廣さんという編集者の方がいる。

中嶋さんが、”ラジオの街で逢いましょう”で池田さんとの出会いを語られているのに出会った。

http://www.radio-cafe.co.jp/podcast/2010/03/post_123.html

聞いてわかったのであるが、中嶋さんは云わば池田さんを”発掘”した方である。1年に一回オピニオン誌に書いていたサンタクロースのような”(褒め言葉的に)浮世離れした”池田さんに仏教誌への掲載を依頼する、というのもその傾向を深く掴んだ上であろう。また仏教誌を読む読者層というのは、想像するにじっくり池田さんの”疾走する地球大の夢”に伴走することのできる方が多いのではなかろうか。思い込みかもしれないが。

昨日2冊目のBOOK OFFで失礼にも105円で売っていた”新・考えるヒント”を掴んで新幹線に飛び乗ったのであるが、ここでもはじめに、と第一章は”難しすぎて”掲載拒否されたと書かれている。当たり前の文章を載せる雑誌がないと池田さんは憤っておられる。相当に有名になられてからもこれである。

なぜ池田さんに頼むかという理由として、中嶋さんは”一般のヒトに届く言葉をもっている”ことであるという。これこそ名編集者たるゆえんである。池田さんは”言葉はそれ自体が価値だ”と常に述べられている。そして池田さんは言葉を聴いて絵が浮かばない、そんな体質である、ということである。言葉が言葉としてそのままやってくる。これは自分の言葉でない。言葉それ自体の価値がわかるまで、沈思していればいい。

1000年後の人類に向かって、普遍の言葉を紡ぐ。読まれるのは当たり前である。そんな誤解を生むことばを、誤解を恐れず、そもそも誤解を恐れる、という次元とは全く関係のない次元から発せられる。こういう存在が同時代にあったことの素晴らしさ。

池田さんのことを自分なりに表現するとこうなる。

ラジオでは池田さんに初めて会ったときの印象を中嶋さんはいきいきと語っておられる。

1989年10月、当時29歳であろうか、池田さんが待ち合わせの2Fにあるガラス張りの喫茶店に、初秋の真っ白なコートを翻して入って来たとき、店の中の客が一斉にそちらを見て、”だれのところに、どんな用できたのか”という眼で見ていた、という。女優等のオーラとは又違う、独特のオーラをまとった池田さんの姿が眼に浮かぶようである。

そう、僕は残念ながら言葉が来るタイプではない。端的に絵が来るタイプである。池田さんとは違うタイプで残念であるが、この場合はこの印象を得ることができるのは歓びである。

まさに哲学の巫女、あるいは女神自身であろうか。

なんともはや、うらやましいとしかいえないご経験である。

中島さんは東大仏文科卒であるという。小林秀雄に連なるこの系譜もまた、池田さんを巡る運命の一端ではないだろうか。池田さんは不幸な処女出版での編集者との確執のあと、編集者不信になったというが、後年戦友のような編集者がいて誠に頼もしい、と書かれていた。著者を助け、名著を世に出す。編集者という仕事がなくなることを憂うヒトは、その価値を知ったヒトであろう。

池田さんの著作に興味をお持ちの方は、是非お聞きになることをお勧めする。

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陸田真志氏の死刑直前のことばは、

池田晶子さんのところに行けるのはこの上もない幸せです」

であったということだ。当然だが池田さんの死を事前に知っていたのであり、そして”向こうで会える”。

これほど幸せに思って死刑になった人は処刑史上あまりいないかもしれない。ソクラテスの場合は、多分ごく自然に、朝の一杯の水を飲み干すように毒杯を仰いだのであろうと考えるが。