”14歳からの哲学”等を世に出されたトランスビュー代表の中嶋廣さんの文章を読む機会があった。
池田さんはやはりネットのことがお嫌いで、だからネットで文章を綴るのは気が進まない、と。
亡くなられた直前の1月20日に実施された最後のサイン会、『14歳の君へ―どう考えどう生きるか―』でのやり取りは、数々の著書を伴走して世に出してこられた同志としての信頼感に満ちている。池田さんの状態を百も承知で、サイン会ののち”原稿、お願いしますね”と頼む中嶋氏。自らの状態を百も承知で、そこでこう頼んでくるのは自らへの一番の励ましである、とたぶん感じられながら、”こんな時によくそんなことが言えるわね”と小声でちょっと怖い顔をしてみせた池田晶子。
そして”すこし微笑んだように見えた”。
これは出席者に気遣いをさせぬよう振舞われたであろう池田さんを、状態を知るが故にこういう言い方で”よくがんばりましたね”といいたくて、いえなくて、元気付ける意味では普通ないような言葉で元気付ける。それもわかって睨んでみせる。
でも”わかってるわよ”。
そしてたぶん”ありがとう”。
こんなことを訳知り顔で書くのも野暮というものだろう。
ただ、著述、というものを天職として選択した池田さんと、その著述のすばらしさを感じ、世に出す努力を惜しまない編集者、というもののうらやましい関係を垣間見る限りだ。
池田さんは不幸なデビュー後、編集者は”いまにみてなさい”の対象であったが、そのうち同志となる人もいる、それがなんとも頼もしい、と書くに至るが、そんな頼りになる伴奏者が例えばこの中嶋さん、ということだろう。
ただ、この文章を読んで、自分はこうしてネットで池田さんのことをわかった風に書いていていいのであろうか、ということを感じた。
ネットで池田さんのことを書いた文章にあまり出会わない気がする。”やはり本当の池田さんのファンならネットになぞ感想を書き散らしたりしないものなんだなあ”と、少し落ち込んだ。
落ち込みながら考えた。池田さんがネットを嫌った理由はなにか。
”顔をみなければ言えないことが書かれている””その書いたモチベーションに卑怯な要素がある言葉”。
言葉の価値を強く認める池田さんにとって、言葉をWASTEしている、という感が強いように感じた。
言葉を大切にしない、言葉を尊敬していない。
そんな言葉たちにあふれる無節操な場所、と思われていたように思う。例えばご自身に対する”おおありくい”氏のコメントなどを見ると、僕もたしかに胸が悪くなる。”むべなるかな”。
であれば僕はどうすればいいか。
一番池田さんがいやがったことやってんのか。
池田は死んでも池田某はのこる。
そう池田さんは常々おっしゃっていたという。
残った池田某のなにか、それが”私”なのか、”魂”なのか、はたまた”世界精神の一部”なのかはわからないが、
それと相対したとき、”なんなの”と言われず、
”あなたにしてはこれが精一杯かもしれないわね”
と思ってもらえるような、”顔をみてもいうことができる”ような言葉を、
書いてゆく、
ことしかない、
これが今の結論であろうか。
・・・池田さん、すみません。
・・・でもやっぱり謝りたくなってしまうのである・・・。