夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

高島野十郎。

高島野十郎を評した米倉守の文。これが高島の画というものを非常に明確に切り取り、活写していると思って書き写したのだった。

以下、引用してみる。尚、この文そのものは多田茂治”野十郎の炎”P.177に引用してあるものの孫引きとなる。

「生きた人間にはじめて出会ったような、また生きることがすでに遊行であるような存在の精神性と幻惑を全身に感じさせるような未知の絵画にでくわした。(中略)だれに強要、強制されることなく、自然にうながされたものだけを透徹した細密描写でとらえたような高島の風景、あるいは数描いたロウソク、太陽、月の作品群は見えるとおり、というより、本当は見えてくるとおりに描いている。あるがままではない。対象を正面に見すえ、それをとりまく空間とそこに侵入してくる空虚を距離とともに的確に描き出すことに苦心し、自分の作品を真の自律に向かわせているのだ。
…孤高の画家にありがちな激情とか意識過剰のはみだしはなく、絵に関して近道をしたり、道草を食ったりはせず、冷静、おそろしく早い速度で独自のまなざしをもった自分の絵画世界を築いているのだ。強靭で品を保つ独学のさわやかさとでもいえばよいのか。」

高島のことを知ったのち、今まで写実画に対して抱いていた思いが変化した。いや、正確には”写実”という行為に対する思いというべきであろう。ただ風景を綺麗に写す行為を僕は心のなかで確かに軽蔑していたのだ。しかし高島の、”見ること”を生涯を通じ極限にまで純化し、求道化する姿、そしてそのことで追及された”写実”の深遠さと怖さを知ったことで、それまでに写実画、というものに感じていた、そして写実画を描く、という作者である画家の心理に対して感じていた”退屈さ”やある種の軽蔑に対し、それでよかったのだろうか、実は重大ななにかを見落としていたのではないか、という感じがしてきたのである。