行って、帰ってきた人を池田さんは評価していた。白川静さんが亡くなったとき、池田さんは四聖の内で最も現実的(怪力乱神を語らず)と言われる孔子も、やはり行って帰ってきた人、”行ったのだが、あたかも行っていないように聞こえる”言葉を話した人であることを、氏の著作で知った、とおっしゃったように記憶する。
池田さんはご自身のことを”いのち根性がない”と常々評していた。そんな人が桜が咲くのを待つだろうか。桜とはこの世へのこだわりの象徴ではないのか。
いや、桜が咲く、桜に対するスタンスから、自らをいのち根性が無い、とおっしゃる池田さんの”命”がほのかに感じられる。いのちから離れて、帰ってきたひと。池田さんもやはり、行って帰ってきた人の一人であるだろう。
桜を待つこと、一見この世への執着を示すようである。勿論そうである。そのような行為を果たして池田さんがするだろうか??
どこかで頷く池田さんがいるように感じるのは何故なのか。
・・・・・ああ、ことしも桜が待ち遠しい。