夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

文化の日によせて。

寝付かれないで、めざめた。

あまりそういうことはないのであるが、珍しく悪夢、というようなものに怖い気がしたのもある。

始めはアトム、だったか。自分ががであったかどうか。ロボットなのか、人なのか。自分の意識のありかは、夢であるが故か、ぶれる、移る。

”壊れてますよ”問いかけたのは僕なのか、僕はロボットなのか、或いはロボット生命(意識在るロボット=アトム)の創造主である(夢の中でも)お茶の水博士か。創作上では勿論アトムの生みの親は天馬博士なのだが、夢の中ではなぜかお茶の水博士であったようだ。或いはアトムの心を育んだ人であるからなのかもしれない。

体が欠けている。例えば頭の後ろの一部が。無いというより、一部別の次元にいっている、チューンが失敗したような感じだ。”知っていますよ”自らが輪廻を30回しなければならない存在であり、”この世”を駆け足で過ぎようとする存在であることを自覚している。だから欠けているのか、欠けているのを気にしないのか。

仲間がいた。同じような境遇の。

世間の人は、我我がそのようなものであると知っていた、或いはこちらから知らしめた、申し訳ない、そのような存在なのです。あやまりながら伝えた。

何回目かの生、過去の生の記憶はある、だが今回の世は。人が人ではなく見える。動物人間だったり、自らを触って,変えているようだ。逃れるように歩く。自らがこの世に合わないような気がして。

空き家にいる。住民は隠れているのか、あるいはいないのか。仲間の一人が狂乱して騒ぐ。皆でたしなめる、その気持ちはみんなあるよ、と。

電車に乗っている。米袋に自らを詰めるように砂や石を入れて網棚においている。詰めている砂の種類をお互いに話している。

それは特攻が決まっている特攻隊員の気持ちに少し似ている。

・・・・ああ、これは、この夢は怖いわ。起きよ。

と思って起きた。寝ても続きを見るなあ、とわかっていたので。

初めていったブックオフで、何冊かの絵本と一緒に創元社「知の再発見」双書”フロイト”を購入。ユングの自伝がないかなあと思って探していたら、105円コーナにあったので思わず購入した。

ユングフロイトに親しみ、後に袂を分かったのが気になっていた。夢を性的なものに還元するフロイトに対し、それだけではない、としたのが理由だと、素人頭で理解している。

思うに、資質として性的なものだけに全てを還元することへの好き嫌いがあるような気がする。ユングが性的なものが嫌いな潔癖症だった、というのとは少し違う。だが性的なものの呪術的な根源的な力を認めつつ、潜在意識の広大無辺性(それはグノーシスの神アプラクサスや、錬金術の広大性、に精神性に繋がる、そしてもちろんそれは原初性に繋がる性的なイメージに深く通じているが)により重要性を感じたのであろう、と思っている。

で、どちらが正、というよりは、嗜好の問題のようにも感じている。どちらだと思うとより自分に正直なのか、と。

夢を記録する癖はなかったが、今回はフロイトのこともあり、なんとなく。

たくさんの本を買った。記録のため記録しておく。つくづく思う。自分は視覚型の人間なのだな、と。

諸川春樹氏が監修した”西洋絵画史WHO'S WHO”の”はじめに”でのべる。

”これまで美術史の概説書というと、やはり西洋史的な観点から美術作品を取り上げたものが多かった。その場合、作品を歴史の流れの中でとらえることの必要から、まず詳細な記述があり、それにわずかな図版(それもたいてい白黒)が添付される形をとるのが普通である。しかもこれで十分なのであった。”

真の芸術家は、自らの時代の要請を理解しつつ、それさえも創作の方便として取り込んで創造するものである、というような意味のことを小林秀雄は言っていた。池田晶子は言っていた。作品は作品そのものとして、作者や背景を気にせず味わうべきである、と。

そういう意味では、絵画は絵画を見るだけで本来いいのではないか。絵を描かない人間が、”絵を鑑賞する"或いは”学問する”から白黒で十分(!)だったのだ。絵をみているんですよ!!?

絵を見なければ、どうすんの?と、感じるのだが。

だからこんな本はつい買ってしまう。まあ、言い訳である。

西洋絵画史WHO’S WHO―カラー版

西洋絵画史WHO’S WHO―カラー版

フロイト:無意識の扉を開く (「知の再発見」双書)

フロイト:無意識の扉を開く (「知の再発見」双書)

ドス・アギラス号の冒険 (a‐tempo)

ドス・アギラス号の冒険 (a‐tempo)

三匹のぶたの話―新釈

三匹のぶたの話―新釈

赤い蝋燭と人魚

赤い蝋燭と人魚

MOE (モエ) 2009年 12月号 [雑誌]

MOE (モエ) 2009年 12月号 [雑誌]

ちいさな曲芸師バーナビー

ちいさな曲芸師バーナビー

なかなかいけない地区のブックオフで欲しい絵本を見つけるとつい買ってしまう。ちなみに最後の2冊は新刊で購入。

読売新聞文化欄で丸谷才一氏が小説家による個人編集の長編全集や小説が売れている、との記事あり(バッグの本、ベッドの本)。

思うに読者は選者自身の創作、そのものと近いものとしてその個人的に選別されたものを求めるのではないか。

批評家や外国文学者、が選らんだ場合、その選別者自身の小説作品に接することは普通ない。小説家が選んだ小説には間違いがない。それは絵を語るのに絵だけを見る、の精神にも近い、ちょっと”知のファスト化=寄り道するのは面倒だ感”があるように思う。

イラチ、というか、我慢できない、というか。余裕が無いともいう。

自分もそうなのだが。

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またまた購入。ヒューケラ”マホガニー”と”オプシディアン”。
もう殆どヤケ,意地ですね。今回はヒューケレラも購入してしまった。