夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

古本の楽しみ。

古本好きの書いた本を読むと、毎日行く、何冊か買う、という記載に出会う。毎日?と思ったものだが、今は納得だ。

神田の古書街に行きたいがなかなか行けない。考えてみると、なんときちんと行ったのは早稲田大学受験の為に東京に行った折、だけのような気がする。早稲田大学と縁がなかったので、東京で学生生活を送ることがなく、その後東京に住んだが、余り行った記憶がない。

なぜ行かなかったのか。今となってはそう思うが、そのときの気分、であろうか。行きたいなあ、と思う時期や状態が、あるものだ。こうして今名古屋に暮らしてみると、例えば美術館、例えば古書街、そんなところでやはり東京や関西の方が充実してることを感じる。

古本街というものが名古屋にも少し存在するのだが、毎日行ける場所にはない。そうなると足繁く通うのはBOOK OFFとなる。BOOK OFFについての思いは複雑である。基本的にはありがたい。店が多いので、又敷居も低いので、蔵書が持ち込まれ、市場に出ることが多くなった気がする。僕のような地方在住のものだと、古本にこうして接することが出来るだけでも嬉しい。

難しいところだな、と思うのは、新しい本に価値を付け、古い本は値段がつかず、多分廃却される割合が高いのではないか、ということだ。本の価値を知った所有者によって売られるならともかく、本の所有者とは別の人によって売られると、それは”値段が付きませんがこちらで処分しましょうか”になってしまっているのではないか。そしてそれは、新しい本を、ほぼ定価の半分で、新刊書店に近い感じで売ろう、という店の方針(客のニーズ)にあっている。

又、新しいものが高い、というスタイルは、本の古書価格を考慮せず、そのためせどりが成り立つ要素も増えたのだろう。結果、珍書の発掘割合も増えた気がする。それがアマゾンマーケットプレイスに出品されれば、地方の者も購入できる、というわけだ。結果僕のようなユーザーは”けっこうレアな本でも、アマゾンで買える可能性が高い”という認識を、現在は持っている。

状態が悪ければ、結構いい本も安く買えることがある。何冊も出品されれば、値下がりを期待できる。値下がりを待つ気分は、スーパーで生鮮食品が半額になるのを待っているようで、それはわびしいのかもしれないが、結構愉しいものだ。

理想は、ブックオフと古本屋が共存することだが、なかなか難しい気がする。レアな面白い本は専門性を持った古本屋で、と思うが、古本屋は日銭を稼ぐ、重要な部分がブックオフに流れ、経営事態がむつかしく、閉店となるケースが多いように思う。

古本屋に求めるのは、店主の趣味・嗜好に合わせてそろえた専門性の高い本だ。それはしばしば絶版で、洋書なども多い。そんな本屋へ行きたいのだが、ここはいつ行ってもうっとりだな、いつか欲しい本がたくさんだな、と思う店は、名古屋では残念ながら殆どない。

前置きが長くなった。

上記前提でいったときに、幸福な例外、がごくまれにある。
ブックオフで、お気に入りの古本屋で見つけるような本を、105円で買う”
というケースだ。30年前くらいの、文庫になっている単行本あたりを狙っている。
文庫は携帯が便利であるとはいえ、本としてのたたずまい、初めて世に生まれるときの作り手の気合、といったものは若干落ちる気がする。

堅牢なつくり、凝った装飾、削った装飾、といったものが満喫できるのは、そんな本たちである。

最近入手した本。串田孫一の随想集、”沈黙の歌”1981年、である。裏表紙を開けると、その本が古本屋から誰かが購入したことを示す鉛筆での値段書きがうっすらと読める。だれかが、気に入って購入したもの。それが巡り巡ってブックオフへ。発行年が古いから、当然105円コーナーにある。少し哀しく、でも個人的には嬉しい瞬間だ。

売れないもの、として処分されなかったことを感謝する。

ここで出会わなければ一生出会わない本かもしれない。値段も含めて。

ブックオフと古本屋の端境に落ち込んだ、そんな販売空間である。

沈黙の歌 (1981年)

沈黙の歌 (1981年)

しかし、困ったことになった。串田孫一は”文房具52話”くらいしか読んだことがなかったのだが、静謐で厳粛な行間に打ちのめされた。

困ったことになった。これからは串田本を探してブックオフめぐりをする日が始るのか。苦しすぎて、愉しすぎる。