池田晶子さんが嫌ったネットであるが、こうしてネットを通じながら、考えたことというほどの深みはなかなか出てはこないものの、この場を借りて今まで約100日分の文章を書いた。
思えば従来はこうして一般人がその思うところを不特定多数に発信するには、非常に限られた手段しか存在しなかった。例えば新聞の投書欄、例えばラジオへのリクエスト。
しかし其処には素人相手とは言いながら、一応の取捨選択があり、数ある選択枝の中から選ばれる必要がある。
ネットでの発信は、どれだけの方に見ていただけるかは別としても、又鮮度の問題はあるにしても、基本的に全世界に、期間を限定せず、行われるものである。
例えば紙媒体であれば、紙自体の物理的存在期間が影響するし、存在しても流通面で大変だ。その時代どれだけ流行っても、月日に取捨選択される。それで残ったのが、古典、といわれるものだ。古典として残ったものは、やはり力があり、残った理由がある。
ネットであれば、読まれなくなるにしろ、今後論理的には非常に長い期間ネット世界にデータとして残るのではないだろうか。其処では残るためには取捨選択は基本的に無いのだから。
そして、翻訳ソフトがあるので、理論的には全世界に開かれている。たとえどんな稚拙な表現でも、だ。
内容の前に、存在としてそういう前提の世界だ。
これはやはり、いい、悪いではなく、大きな変化であろう。
そんなことを考えたのは、しょこたんこと中川翔子のブログを見て、彼女がブログは自分が存在した証、未来永劫ずっと残ってほしいお、という感じでコメントしていたのを見てのことだ。
彼女があれだけ頻繁に更新している原動力を垣間見た感じがした。
団塊の世代との闘争を経て、自分の立ち位置を時間をかけて、いまにみてなさい、という意地で以って長い時間を掛けて確保した池田さんにしてみれば、なんとも安易に、危なっかしく見えるのだろう。
であれば、僕はこの僕という存在形式に於いて、言葉の一つ一つの意味を大切にし、顔を見なければ言えないことばを、例えば小林秀雄の”覚悟”の意味を常に頭に置きつつ、一歩一歩ふらつきながら紡いでゆく、ということしでしか、その本来の敷居の低さからくる危なっかしさから逃れる道は無いだろう。
これは今までには無かった危険ではあるが、貴重な機会でもあると感じる。心して、取り組みたい。