夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

京極夏彦氏講演へ行った。

昨日は、名古屋某所にて実施の京極夏彦氏の講演へ行った。


KODANSHA NOVELS版 姑獲鳥の夏 の出版は1994年で、評判になっていたこの本のことをその年の終わりに”このミステリーがすごい”で知って、主にタイトルに痺れて(知らない妖怪だったので)購入したのがこの作家との出会いであった。

ミステリーには現実を厳しく描くべき、という不文律があるように感じ、それが足かせとなると感じており(それを外れると”狭義のミステリーからは外れるが”などと形容され、)、それを軽やかに踏み外しそうになりつつ、”たたらを敢えて踏んで”ぎりぎりの所で踏みとどまって、狭義のミステリーファンを唸らせてくれた"こちら側のヒト”、だから応援せねば、という思いであったやうに今は当時の自分の心境を分析している。

作家が実は水木ファンであり、大量の本を所有、整理(ここは違う)されていること、美術部であり、装丁等の仕事がむしろ当時本職であられること、等を知るにつれ、自らの性向との類似と、そのレベルの違いに圧倒され、心理的には紙一重の距離を置いているのが現在だ。

水木ファンとしては殆ど全ての本を所有し、イラストはプロそのもの、博覧強記で美術部は部長、(別に部長が偉いわけでもなかろうが)おまけに体育はからっきしとくれば、自分が持っている傾向のある面で、最高の結果を出しておられる先輩である。一サラリーマンである自分を嘆いて卑下するわけではないものの、その余りの実行力の差異に呆然たる思いが去来するのも事実。

ただ、体育のダメ度はちょっと負けてない自信があるが・・・。
(ま、ダメ度ですからね)
池田晶子さんも、体育があまり・・と書かれているのを読んで、親近感が大変アップしたのも、学生時代の辛さの裏返しであろう。トラウマってやつですかね。
今でも体育がちょっと・・という人とは、”これは話が合いそうだわい”などとついホクホクしてしまう。)


作家が指貫グローブを手甲と称して愛用なされている事実を知るにつけ、自らも神戸高架下で、大学生のころ店主にうさんくさがられつつ購入した指貫グローブとの相似に”い、いや、べつにまねしたわけじゃ・・・・”などという言い訳をせざるを得ない(誰に?)気持ちも少しく兆す、わけである。
(初代グローブは、バイクでの転倒時、思わずついた手のひらを守ってくれて本来の責務を果たして昇天、今は香港で購入した2代目であるが)

ま、やっかみ、なのですな。

自らの傾向が、日常生活では殆ど似た嗜好を持った人間と出会わないという寂しさは、”孤高の?”趣味世界への没入との同義でもあるわけであり、ヒトと比較するのは不幸の始まり、であることを、思わず無防備に忘れる瞬間でもある。

ともあれ座の掌握、話術に富んだ作家のトークには感じ入った。書斎曼荼羅①(磯田和一)にて感嘆した作家の書物との付き合いに関し、リアルに確認できた感があり、大変楽しい2時間であった。

書棚に入ってしまえば高い本も安い本も所詮世間の評価であり、自らの評価では平等である、という"本の民主主義”は、当たり前だがつい忘れてしまう(特に購入時高い金にて求めた場合)が、書物を愛玩される人の基本であることを思い出させて頂けた。

整理が得意、とおっしゃる部分は、自分にはまったく無いが、自戒を込めて30箱のダンボールが未整理のまま放置されている我が小さな部屋への戒め、あるべき夢、として憧れを抱いた。

10月にアップしたのと同じ自室の本棚を自戒を込めて再掲する。

姑獲鳥の夏 (講談社ノベルス)

姑獲鳥の夏 (講談社ノベルス)

我が本棚の理想のイメージ(垂直落下するアリス(映画版))

書斎曼荼羅 1 ―― 本と闘う人々

書斎曼荼羅 1 ―― 本と闘う人々