異常に暖かい日が来たと思えば、その翌日には車窓から見た
関が原の一面の雪景色。
しかし、空気は確かに春の気配を孕み、良く晴れた湖畔の公園では
梅が咲き誇っていたりする。
”ああ、季節がまた巡ったのだ。”
”もう三回忌が近づく。早いものだ、と心のなかで呟いてみる。私も、こんな簡単な言葉に言うに言われぬ感慨を抱かせられるような年頃になっている事を思う”
あなたの初期の文章のなかのこんなみずみずしい詠嘆や、知己であった吉川英治氏を偲んでの小林秀雄のこのような感慨が、それがこれらの人々の言葉なのか、自分の気持ちなのか、渾然としたレベルで、最近の僕の心を去来する。
生きている人間はふわふわしている、どうして死んだ人間だけがこんなにくっきりとした輪郭を持ってあるのだろう、といったような感想を、小林秀雄は川端康成に述べた、というような箇所が、思い出される。それを読んだとき、なにか良くわからないような気がして、心にひっかかって、折に触れそれはどういうことか、と考えるようになった。
死んだ人間は、もうそのなされた仕事自体は変わることがない、といったようなことであれば、それは当たり前だ。小林はそのような当たり前のことが述べたかったのだろうか。
そうではない、それだけではない、という気が、最近少ししてきた。亡くなった人びととの交流は、その著作等を通じ、我々の心の中での会話、反芻が主となる。
亡くなった人々との、最近であれ、数千年であれ、今に伝わる書物を通じた”魂の交流”は、それは時間というものを超えた、いや、人類が発明し、当たり前のものとして全ての人が使用する”時間という概念”を超えた世界でのリアルな書物の言葉による出会いである。
そうした生き生きとした出会いが続いていると、亡くなった人との魂の交流が、たとえその著者本人と生前実際に面識が無くとも、日々生きんがための社会生活での交流などとは文字通り”次元が違う”くっきりとした、深い交流となってゆく。
小林秀雄の感想は、そのような思いを、その言葉の意味を正確に汲んでくれそうな川端康成に、いわば問答のようにぶつけられたものではなかったのか。
確か川端の反応は、小林がこの詠嘆に込めた思いを十分汲んだものとはいえなかったようで、小林秀雄はその残念感ももってそのようなことを書き残しているような気がする。
思えば、こうした小林秀雄の著作に接する機会を作ってくれたのも、そして又、その著作で手に入れられるものはほとんど手に入れてしまって、仕方なくその思いや、伝えたい気持ちが共通するような人びとの言葉を無意識で捜すようになったのも、この人の1冊の著作を、ふと図書館で手に取ったことから加速したのであった。
その姿をその著作を通じくっきりと仰ぎみることが出来る偉大な先達。
小林秀雄。
ソクラテス。
プラトン。
埴谷雄高。
洲之内徹。
西行。
良寛。
中野孝次。
白洲正子。
白川静。
兼好。
フランクル。
神谷美恵子。
ヘッセ。
本居宣長。
モンテーニュ。
孔子。
老子。
キリスト。
仏陀。
高島野十郎。
ああ、こんなところにこんな偉大な言葉が。
そう思う著作との出会いがあることのそのきっかけは、
その著作との出会いがきっかけであった。
言葉というものの不思議さを説き、2000年後の世界に向けた真理の言葉、自らの言葉ではなく、普遍の言葉を語り続け、それが僕自身に真理の言葉として伝わることで、言葉の不可思議さもまた垣間見ることが出来た気がする。
書物を通じたのみの今生の邂逅ではあり、時間的には可能であった出会いが出来なかったことは返す返すも残念ではあるが、それはレベルが違っても小林秀雄に出会えなかったこの方の思いと、同じ系列であると自らを慰めつつ・・・・、
さて、死んだのはだれなのか。
死とはなんだ。誰とは誰だ。問いかけるこの真理をある一個人の魂が所有し、言葉で伝えているこの事実はなんだ。自らの生をこの問いに込め、誰に向けて何のために残したか。なぜそこまで残った他人への言葉をのこされたのか。
””私のような”そう自分を卑下していると安心するような、情けない枕詞付きではありますが・・・・・。
その最後の問い、自分なりに日々考えさせて貰っておりますよ・・・・・・・・・・・・・・・。”
もうすぐ池田晶子さんの命日がやってくる。
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