夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ネットとマンガ。

日経ビジネスの巻尾連載、”終わらない話”武田徹氏のコラムを
読んだ。

ケータイではメールを受信するたび課金されるので、若い世代を格好のビジネス標的と捉えて広告を大量に送りつける大人の思惑を避ける為、インターネットで使えない特殊な文字列(ピリオドの連続等)をアドレスに含ませて、そういったネットからのメールをブロックする結果、ケータイはインターネットと断絶している、ということ、

そしてケータイではいつでも、どこでも発信可能なので、言葉に対する
立ち居地、というか言葉を受け止めて俯瞰、相対化することがなくなっている、言葉との距離感が従来とは変わってきている、

そんな2点がコメントされていた。

梅田望夫さんと斎藤孝さんの対談”私塾のすすめ”では、WEBより公演や本によるコミュニケーションに軸足をつい置いてしまうとする斎藤さんに対し、少数の、でもとてもいやなことを我慢するなら、WEBの可能性は世界とのニューロン、世界とつながりガチンコ勝負的には、画期的なものであり、拒否すべきではない、といったニュアンスのことを述べておられる。

僕は1965年生まれであり、生まれたときは白黒テレビで虫プロにより鉄腕アトムが製作、放映されていた、根っからのマンガ・アニメ世代であると自負している(池田晶子さんは、こうして自分を”世代”でくくって考えることはおかしい、とおっしゃっているが)。

ここは、自分の生きた時代がこうであった、という意味で、
世代、という語を使った、ということにしておくが、

まあ、そういう意味では、マンガばかり読まずに、本を読め、という風潮ではあった。マンガというものは悪いものだ、と。

それに対し、マンガとは単に表現方法、本や映画と同じように、
ひとつの表現である、マンガの中にいい漫画、悪い漫画があるだけだ、という風に考え、反発し、機会があると確信を持って発言していた。

ありがたいことに、我が両親は、特に漫画を敵視することなく、比較的信用して読ませてもらったが。

現在はマンガやアニメといえば、その存在が悪い、という文脈はなりを潜め、宮崎アニメはCOOL JAPANの象徴として祭り上げられている。初期宮崎(初期東映まんがまつりから、ハイジ、ルパン、コナンに至る)を見つづけたファンとしては、ここまでメジャーになるとへそがすこし曲がってくるのだが、相変わらずフィティッシュで枝葉末節にこだわる宮崎節にぶれはないようで、そこのところは、さすが、となる。ここがご子息にはつらいところで、所詮宮崎作品は基本的にはアシスタントを使って作品を作っている漫画家と本質的には違わない。

つまり同じスタッフで固めても、同じ味わいのものは作れない、いわば藤子不二雄プロ作画の大長編ドラえもん、みたいなものだ。

ここでちょっと思い出したが、ガ・フェーク氏作成のドラえもん最終話が、一般にはニセドラえもん、という切り口で紹介されたが、
あの話が世に出たきっかけは違うだろう。

作者が物故していることは周知の事実、そのなかで、ドラえもんの心、味わい、本当にドラえもんの最終がどうなのか、考えた、そんな作者の立ち位置が、基本的にドラえもんを幼少のころから読み込んでいる日本国民(この場合は40歳前後を頂点とするそれ以下の世代)に受け入れられた、端的には心を含んで絵が、そしてストーリーがよかった、いわば山田なきあと栗カンのルパンの声が受け入れられたときのように、ということなのだろう。

枝葉末節で、本の価格が高騰したとか、そういう現象をあとから見てしまうと、違う解釈をしてしまうが、あの大長編ドラえもん藤子不二雄プロでは、感触の違いが目に付いて、僕の場合は読みきれない、フラストレーションの反動として、ここまでドラを掴んでいるか、この角度、そしてちょっと大人っぽいがそれもありのしずちゃん、といったような感想を持ちつつ受け止めた、実はプロである作者の実力に参った、というのがあの本があそこまで売れた構図であろう。

そんなことはわざわざいわなくとも、あの本を読みたくて買った読者は先刻承知であろうが。

ちょっと話しがずれたが、いいたかったのは、

漫画は基本的に月刊を経て週刊にいたる、短期大量生産によるものである。1週間でずたぼろになって、凝縮した物語を継続生産できる能力をもった作家が切磋琢磨、シビアに選別される世界である。そういったシステムがジャンプに代表される週刊誌で構築されたがために現出した特異なジャンルである。同じ仕組みがなければ、あるいは別の集中を生む仕組みがないと、たとえば中国でいま進めている中国製漫画、は困難な面があるだろう。

またいいたいことがずれたが、つまり初期の漫画はその新しい存在感が理解されず、たとえば永井豪ハレンチ学園)、たとえば秋山ジョージ(アシュラ)、たとえばとりいかずよしトイレット博士)といったいわば世間にチャレンジングな作品が目立ち、それがあるからマンガはイカン!という論調が強かった気がする。

そしてもうひとつ、時間的な制約から、絵にかけられる物理的な時間が限られてしまい、従来の時間をかけ、俯瞰を含んだ絵(武田さんの流れでいけば、WEBでは言葉に対する俯瞰)に比べ、どうしても粗雑な感を受ける部分もある。これはケータイでの言葉の即物使用の触感ににつながるだろう。

WEBも似たような負の部分、所詮コンテンツ、使われ方ではあるが”特に若年の性に対する攻撃面”というナイーブでややこしい部分で問題がある部分に、どうしても行ってしまう部分がある。

そこが梅田さんのいう”少数の、でもすごくいやなこと”であるだろう。

そこを耐える力、にはパワーが必要で、僕自身は耐えられるかどうかはちょっと斎藤孝さんよりである予感もあるのだが、しかし梅田さんの高い視点、みたなものに触発されて、このような日記を書き出した、という部分が、あるのである。


今のマンガの状況を考えると、武田さんの指摘をベースに考えると、漫画と絵画が別に存在するように、ネットによる言語と、従来の文章、というものは別のものとして存在し、発展する気がする。
だが漫画と絵画のようなわかりやすい差異がなく、それらはより融合し、一方が他方を飲み込むことにもなるだろう。

なくなりはしないが、影響の大きな低下、という形で。

そこでのキイは梅田さんのWEBに対するいわば楽観論、である気がしている。

考える日々〈3〉

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