夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

マス・ビジュアルとパーソナル・ビジュアル。

土井英司さんの”ビジネスブックマラソン”が毎日送信されるのが楽しみである。
すごいのは、とにかく毎日1冊の本のエッセンスが途切れなく
連絡されることだ。

またそのセレクションも、思わず読んでみようかと思うものが多い。
この情報で購入した本、購入せずとも本屋で立ち読みをした本は数多い。

本日の本は、
マインドセット ものを考える力』ジョン・ネスビッツ・著


最近、シンクロニシティ(*)を感じることがある。
何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見做す。

ある物事に注意していると、多くの情報の中から、注意している出来事に気づきやすい、
という面もあるかもしれない。
いずれにしても、興味を持っている出来事とシンクロする情報や出来事が
やってくるのはウェルカムである。
どんどんシンクロしてくれ、というカンジである。

本日の本”マインドセット ものを考える力”の中で
シンクロニシティを感じた項目は下記。

”現在、美術や建造物から高級ファッションやありふれた商品のデザ
インにいたるまで、視覚に訴えるものがこれまでになく幅を利かせ
ている。それはMTVの世界であり、視覚による語りが文学の語り
を圧倒する世界である”


昨日、電車の中吊りを見ていて考えた。
週刊誌のグラビア広告である。

写真が、データが、印刷が、
こうして日々の暮らしの中でわれわれに接してくる。

それは、複製可能な、不特定多数の受け手を意識した仕組みの中である。
これを、マス・ビジュアル、と呼びたい。

一方、こうしたマス・ビジュアル成立以前のビジュアルとはどういう風であったか。

基本的には、1品もの、個人が手で描くものであったろう。
(そこでは見る人=描く人が基本(プロの画家、看板屋等は別)。
 描く人の思いや技量が当然ながら結果としての絵、にダイレクトに
 影響する)

こうした絵を、マス・ビジュアルと相対する、パーソナル・ビジュアル、と呼びたい。

マス・ビジュアルは、お手軽、安価、入手容易、でもほかのだれでも見れるよね、
という、自分独占ははなっから不可能、という条件がついてくる。

一方、パーソナル・ビジュアルは、
基本的にひとつしかない、したがって自分独占が基本である。
自ら描くのであれば、時間と技術と部材が必要だ。手間と意志が必要でもある。
秘蔵することで、他人にはうかがい知れない、濃厚で密接な
1対1の関係を構築することができる。

絵を描くこと、の大きな魅力はここにあるのではないか。
そこで自分は造物主である。神である。

もちろん他人に向けて表現し、共有することも可能である。

問題は技能である。思うように表現できない。
すがりつくような希求する思い、をもって描くであろう。(自分は、他人は)。

そしてその希求するプロセスもまた、パーソナルがよりパーソナルたりうる、
深い思いにつながってゆく。

グラビアを見て思いついただけに、具体的には女性画をイメージしたが、
これが風景画であっても、根っこには同じ思いがあるであろう。

この風景を自らの手によって、取り込み、吸収し、自らの味わいを付加する。
そんな不遜な、わくわくする思いだ。

パーソナル・ビジュアルを明確に意識させられたのは、
ヘルマン・ヘッセデミアン”を読んでのことだ。
主人公は、孤独な寮生活の中で、憧れの女性の絵を個人的に描き続ける。
時間を置いて、手を加える。どんどん変化する。
それが油絵を描くときの特色であり、魅力である。

ペン画ではそうは行かない。

憧れの女性の絵は、毎日手を加えると、その思いも反映し、どんどん変化する。
最後には男性とも女性ともつかない、
デミアンに、デミアンの母に似た似顔となってゆくのである。

自ら認識しえない、自らの潜在意識が、自らの手によって表現されることも
あるであろう。

これは、絵との恋愛関係だ。
苦しく、楽しく、秘教的で、背徳的でもある。

似顔であり、似顔でない、別のビジュアル。
似顔の元に対する興味がなくなり、絵に恋するようになる主人公シンクレアの
思いの遍歴もまた、絵の特性を示している。

ヘッセは絵もよくした。
絵に対する本能的な理解、が深いのを感じる。

そうした思いの深い、いわば重たく、面倒なパーソナル・ビジュアルに対し、
昨今のマス・ビジュアルのお手軽さ。

ほしいものが入手できるハードルは、うれしいのであるが、入手して当たり前、
入手できないと焦燥を感じる、という部分は、あまり楽しくない。

写真であれば、基本的に被写体である女性の表情を基本的には忠実に
伝えてしまう。

想像の余地、そして創造の余地は極めて限られている。

ちょっと楽しくないところもある。
私は端的にそう感じる。

前述の本の項目には、
視覚による語りが文学の語りを圧倒する世界。
 
そうあった。

ここでいう構図は、

視覚による語り=お手軽で接触が容易なマス・ビジュアルに該当し、
文学による語り=パーソナルで共有感が少ない、パーソナル・ビジュアルに通じる、

そんな風になるであろう。
そういう構図で私にシンクロニシティしてきたのである。


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デミアン (新潮文庫)

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